正楽寺日誌 つれづれなるままに 正楽寺日誌 つれづれなるままに

普段遣いのお寺

本日もご法事のご縁
 
ご近所の方が
 
いつもお世話になっているお寺が遠方で
 
コロナ禍で帰れないから

こっちでお参り出来ないか
 
というご相談からのことでした
 
 
一緒にお参りさせていただいて
 
帰り際
 
私の口からポロッと出た言葉は
 
普段使いのお寺として また来てね
 
でした
 
 
コロナ禍において
  
この類のご相談をいただく機会が増えています
 
遠方でなかなか帰れなくても
 
皆さまにとって
 
普段遣いお寺
 
として
 
どう在ることが大切か
 
そんなことを考えさせられました

 

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あとどれくらい…

お寺の看板犬のロン(1枚目)とルイ(2枚目)

今年15歳と14歳
 
それぞれ肝臓癌と糖尿病を患っています
 
 
年齢や病気のこともあり
 
あとどれくらいの時間
一緒に過ごせるのかな?
 
と いつも頭をよぎります
 
 
それぞれにいただいた いのち
 
時間に限りのある尊いいのちだから
 
一緒に過ごす
 
一瞬一瞬を
 
大切にしたいと思うのです

 

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生きているものは光っている
みんなそれぞれの光をいただいて

 私は、教師になってからもなかなか子どもという奴は、かわいい奴だと思えません

でした。「かわいい」と「憎い」のどちらに近いかというと「憎い」方に近い、そう

いう私でした。一番適切なことばは何だろうかと考えてみると「ずいぶんやっかいな

奴だ」ということになるような気がしたものです。子どもが「やっかいだ」というの

は、子どもが生きているからである、生きているからこちらの思うようにはなってく

れないのであって、それはたいへん結構なことであると分からせてもらったのは、ず

っと後のことでした。

 生きているものは、みんな伸びたがっているし、花をつけたがっているし、実を結

びたがっていると分からせてもらったのは、またその後のことでした。

 そして、生きているのではなくて、どうやら生かされているようだぞ、と分からせ

てもらったのは、さらに後のことでした。どす黒いいやな荷物を、子どものくせにす

でにいくつもいくつも背負っているけれども、それなりに光を求め、うるおいを求め、

安らぎを求めずにはおれないように、生かされているようだぞと分からせてもらった

のです。

 生きているものは、光っている。

 どの子も子どもは星。みんなそれぞれが、それぞれの光をいただいてまばたきしている。

拝まれ ゆるされ
生かされている私

 お地蔵様にあいさつしようとしたとき、ハッとした。お地蔵様は私が手を合わせる

よりさきに、私に手を合わせていらっしゃる。拝むものだけを拝まれているのではない。

 背いている真っ最中も抱かれていた。

 仏さまは、私の向こうにではなく、私の背後にあった。

 私のような者も、拝まれ、祈られ、赦され、生かされている。

 幼い時からずっとずっと、こういう私によりそって、はらたきづめにはたらいて

くださったはたらき、願いがあった。

 大人にも、子どもにも、私たち一人ひとりにかけられている大いなるものの願いがある。

 生きるための一切の努力も投げ捨てて、眠りこけていた私であったのに、目が覚めて

みたら生きていた。いや、生かされていた。

 いつどこで、どんな大暴れをやり、自他を破綻に追い込んでしまうかもわからない

恐ろしいものを潜めている川にそって、岸がつくられた。私にそって本願がある。

 私だけでなく、親子ともども大いなるいのちに、願われ、祈られ、赦され、生かされている。

 どんな荒れ狂う川の水も、摂(おさ)めとっていく海のように必ず摂取される世界があった。

その世界のどまん中に、私は生かされていた。背いているときも、誘っているときも

「み手のまん中」であった。

 気がついても、気がつかなくても、大いなる親のひざの上にいる。

 どこへいっても、何をしているときも、わすれているときも、私を支えてくれてい

るものがある。

 自分を包んでいる大きな愛、願われているしあわせの思い、そういうものが、苦難

をのり越える力になってきた。

梅雨入り

関東地方も今週いよいよ梅雨入りしました

 

この時期は

暑かったり、涼しかったり

 

皆さまどうぞご自愛のうえお過ごしください

 

 

川崎正楽寺 境内の紫陽花も小ぶりながらキレイに咲きました

 

 

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