正楽寺日誌 つれづれなるままに 正楽寺日誌 つれづれなるままに

口がとがってしまうと耳が粗末になる
口より耳が大切なのに

 (※「聞法」「聴聞」という言葉があります。文字通り仏さまのみ教え<仏法>を

聞<聴>かせていただくという意味です。しかし私たちは、つい「私が私が」とい

う自我の意識が強く、素直に仏さまや相手の言葉を聞こうとしません。東井先生が

紹介されている次のお母さんの話は、そういう私たちの姿でもあるのでしょう)

          *             *

 五年生の子の日記に、

   僕のお母さんの叱り方は、大変面白い叱り方です。僕には一言もものをいわ

  せないで、ペラペラ、ペラペラ二十分間くらいつづけてお説教します。まるで

  『ビルマの堅琴』の映画でみた機関銃のようです。僕はその間よく聞いている

  ような格好を、しております。(あんまり聞いとらんらしい)お母さんは叱っ

  てしまうと、いつでも「わかったか」といいます。僕は何もわかりませんが

 「はい」と言うことにしております。

  先生、今日の日記のことは、お母さんに話さないでください。

 

 という日記を書いていますが、どうしても口がとんがってしまうのですね。耳が

粗末になるのですね。聞くということは解ってやるということでしょう。解ってく

れるもののためには、どんなつらいこともがんばるぞ、それが子どもというもので

すね。だから仏様の耳は大きな耳をしていらっしやる。私達の大事な胸の中のつぶ

やきも、ちゃんと聞いてくださってある。この仏さまのお耳に学ばしていただくと、

これはいい子にならずにはおれなくなるのですね。

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