正楽寺日誌 つれづれなるままに 正楽寺日誌 つれづれなるままに

生きる

何気ない毎日

 

当たり前のように朝起きて

 

当たり前のように夜寝る

 

全てが当たり前すぎて気にも止めないけど

 

 

何でもない日暮らし

 

出来ているのは

 

 

 

この【いのち】あってこそ

 

 

 

そのことをしっかりと噛み締めて

 

1日1日を

 

大切に生きてまいりましょう

 

 

 

写真は川崎正楽寺境内の夏みかん

大分色づきました^^

 

 

2020冬 夏みかん

人間はみんな
すばらしい

 井上先生が、四年生を担任していたとき、M君という、みんなから困られている

子どもがいました。仲間が掃除していても、少しも協力しないばかりか、せっかく

みんなが掃き集めたゴミを蹴散らしてまわります。仲間が机を整頓すると、ひっくり

返してまわります。そういうとき、これまでの担任の先生は、きびしく叱りましたが、

井上先生はなぜか叱りません。子どもたちには、それがまた不満でした。みんなが、

M君に忠告しても、M君はきき入れようとはしません。

 とうとう、学級委員の女の子が、腹を立てて、M君のことを作文に書きました。

それには、井上先生も知らないM君の行動もたくさん書かれており、「どうして

先生はMちゃんに甘いのですか。もっときびしく叱ってください」という要求も

書かれていました。

 井上先生は、その作文をコピーして、みんなに配りました。みんなも、全く同感

でした。「M君は、どうしてぼくらのいうことをきいてくれないのか?」「Mちゃんは、

どうしてわたしたちのいやがることばかりするのですか?」と、M君を追及する

声が沸きおこりました。

 M君は、黙って、下を向いたままです。

「M君、君にも、言いたいことが、いっぱいあるはずだ、言ってごらん」

と先生が言っても、一言も言いません。

「いえないかもしれないな。ほんとうにつらいときには、口には言えないからな。

では、M君、言いたいことを、書いてみないか」と、書くことを勧めました。

 作文の大嫌いなM君でした。作文なんか、一度も書いたことのないM君でした。

が、そのM君が、ぎっしり、いっぱい、作文を書いてきたのです。それには、赤ん

坊のときから、オシッコのくせがわるかったこと。よその同年の子どものオムツがとれても、

オムツがとれなかったこと。幼稚園にいくようになっても、パンツがぬれたこと。

みんなから「くーさいぞ」「くーさいぞ」「しょんべんこき」「しょんべんこき」

などといっていじめられたこと。いじめられるのがいやで、家にとじこもるようになったこと。

運動しないのでぶくぶく太ってきたこと。日に当たらないので色が白くなったこと。

「白ブタ」「白ブタ」といじめられたこと。それをじっとがまんしていると、

「白ブタを怒らせる遊びをしようや」などといって、持ちものをかくしたり、

履物をかくしたりされたこと。腹を立てると、「白ブタが怒った!」「白ブタが怒った!」

とはやしたてられたこと。「いつかきっとかたきをうってやるぞ。もうおまえたちの

いくことなんか、絶対聞いてやるものか」と考えるようになったことが、ギッシリ、

書かれていたのです。

 先生は、それをコピーして、みんなに配りました。子どもたちは、びっくりしました。

M君を困った子にしていたのは自分たちであったことがわかったからです。

「M君、ごめん!」

「Mちゃん、ごめん!」

 みんな、泣きながら、M君に詫びました。そうなると、M君も、たまらなくなって

しまいました。泣きながら、みんなの前へ出て、

「ぼくこそ、みんなの困ることばっかりやってごめん!」

と詫びました。

 M君が、いきいきとして登校するようになりました。教室のふんい気が、いっぺんに

変ってしまいました。

 いちばん喜ばれたのは、お母さんでした。工場へ出勤するのを二時間も遅刻して、

手紙など、一度も書いたことのなかったお母さんが、忘れた字を思い出しながら、

学級の子どもたちに、お礼の手紙を書かれたのです。

 それには、寝小便のいい薬があると聞くと、どんなに高価でも、買い入れて服用

させたが、効き目がなかったこと。鹿児島に、いいお医者さまがおられると聞いて、

わざわざはるばる診てもらいにいったが、効き目がなかったこと。どうしてお前は

オシッコのくせがそんなにわるいのかと叱ったこと。親でも、どうしてやることも

できなかったのに、皆さんのおかげで、Mが、いきいきと学校にいくようになって

くれましたと、ギッシリ書かれていました。

 子どもたちは、また、びっくりしましました。M君だけでなく、M君のお母さんや、

家族の皆さんまで、長い間、苦しめていたことに気づいたのです。

 みんなが、お母さんに、お詫びの手紙を書いて届けました。それをお母さんが

感激して、また、手紙を書かれました。

 そのお母さんの手紙を、先生は、「学級通信」に載せて、家庭に配りました。

親ごさんたちがびっくりされました。M君という困った子がいるということは、

子どもたちから聞いて、みんな知っておられました。が、「M君の親ごさんは、

どうしてM君を指導しないのか」と、よそごとに考えておられたのです。ところが、

それを、よそごとに考えていた自分たちが、M君や、M君の家の皆さんを、長い間、

苦しめていたことに気づかれたのです。

 このことが、もとになって、子どもの問題を、みんなの問題として勉強しあう、

勉強会が発足し、井上先生とご縁が深いというので、私までその会に参加させて

もらうことになってしまいました。

きづかなくても
大いなる親のひざの上

 拝まない者も

 おがまれている

 

 拝まないときも

 おがまれている

 

 これは、私の近くの路傍のお地蔵さまからいただいたことばです。

  私は、若い頃、「無神論」にたぶらかされて、仏さまもくそもあるものかなどと

 壮語していた時がありました。しかし、そういう私をも、仏さまは、赦し、念じ、

 祈り、拝んでいてくださいました。きがつかなくても、大いなる親のひざの上だったのです。

  私は、毎朝、目を覚ますと、このことばを、心の中でつぶやきます。そしてお念仏

 しながら起床させてもらいます。一晩中、眠りこけている真最中も、私は、願われ、

 拝まれ、赦されて、過ごさせていただいていたのだと思うと、おのずから、お念仏

 が出てくださるのです。

働きづめに働いている心臓
ほら、いまも

 大いなるいのちへの目覚めのために、私に、大きな影響を与えた書物の中の一冊

に『療病求道録』という書物がありました。著者は山県正明という方でした。

 その頃は、「結核」が、今日の「癌」のように恐れられ、世話をする人たちに

感染するというので、嫌われていました。私の近親の者の中にも、若い命を結核に

奪われた者が幾人もありましたし、私がうらやましいと思っていたような健康な仲間

が、幾人も結核で死んでいきました。

 山県さんも、その結核だったのです。両肺全体に病巣が広がり、医師からも、家族

の方々からも見放され、山県さんご自身も、家族の方々への感染をおそれ、離れの

座敷で、一人絶望の底に沈んでおられたようです。

 どころが、ある朝のことでした。気がついてみると、被っておられる布団が、ピクッと、

ほんとにかすかに、ゆれているのです。心臓の鼓動で、ピクッ、ピクッと

ゆれていたのでした。

 山県さんは、ハッとされました。医師も見放している。家族の方々も見放しておられる。

そればかりではありません。山県さんご自身さえも見放しているその山県さんを、

なお見放すことができないで、夜も昼も、生かさずにはおかないぞと、

願いづめに願い、働きづめに働いている”はたらき”に目覚められたのです。

 とたんに、大きなよろこびと、安らぎと、生きる力が甦ってきました。そして、

生も死も、すべて、この大きな願い、働きに預ける以外にない自分に、目覚められ

たのです。

 ところで不思議なことにそれから、体中に活力が湧き起こり始め、山県さんは遂に、

再び働くことができるようになられたのです。

「このよろこびと、安らぎと、力を、何とか同じ病の中で苦しんでいる方々に届け

たい一心から、私は、この書物を書いた」と、お書きになっていたことが、今も、

私には忘れられないのです。

 心臓は、山県さんが気づかれる気づかれないにかかわらず、ずっとずっと前から、

働きづめに働いていたのです。山県さんも、大きなみ手のまんなかに生き、そして

病み、み手のまんなかで、絶望されていたのです。

 これから「救い」にあずかるのではないのです。既に「救いのみ手」のなかに

あった自分に目覚めさせていただくばかりなのです。

尊いものを仰ぐ
美しいものに感動

 ある保育園の保母さんが幼な児たちのことばを記録しておられますが、その中に

「ぼくの舌、動け」

というたときは

 もう 動いたあとや

 ぼくより先に

 ぼくの舌 動かすのは

 何や?

というのがありました。五歳の男の子のことばだということでしたが、こんな幼い

子どもにも、人間存在の根底にあり、背後にあり、存在そのものをあらしめている

大いなるものを見る目が、既にちゃんと開かれているのだということに、驚いたことでした。

 そして、それといっしょに、こういう驚き、芽生えを尊いものとして大切にし、

いたわってやってくださっている保母さんのお心を尊く思ったことでした。

 私に、この「大いなるもの」に驚く心が芽生えたのは、K先生に教わっているときでしたから、

小学四年生のときでした。

 朝顔の花が、ほんとに短い時間しか開いておれないのがかわいそうで、一度咲いて

しおれてしまっているのを、ひとつひとつねじって、にせものの蕾をつくってやりました。

もう一度咲かせてやりたかったのです。

 にせものを見破られそうなのもありましたが、ほんものとまちがえて、もう一度

咲きそうに見えるのも幾つかできました。

 翌朝が楽しみでした。

 夜が明けるか明けないかの早朝、とびおきて見に行きました。するとどうでしょうか、

ひとつ残らず、前の日より更に更にみにくくしおれてしまっています。

中には萼(がく)から抜け落ちてしまっているのもあります。

「花はやっぱり知っているんだ!」

「花はやっぱり知っているんだ!」

と叫ばずにはいられませんでした。

 それから、五年生のときでした。友だちと二人、学校から帰る途中の田舎道でした。

秋だったのでしょう。ほんとに空が澄んでいました。

「あの青い空、ずうっと、ずうっと、ずうっとのばっていったら、もうこれから

先はのばれんという空の天井があるんだろうな?」

「いや、天井なんてないんだって、どこまでいっても、どこまでいっても空なんだって」

「そこを、もっともっともっともっと行くんだ、そしたら、もうこれでおしまい

という天井があるにちがいないと思うんだ」

「いや、どこまでいっても、どこまでいっても空なんだ、それを無限っていうんだ」

「おかしいな!無限だなんておかしいな!」

「不思議だな!無限だなんて不思議だな!」

二人で見上げる空は、ほんとに美しく澄んでいました。無限の空の底を二人の子ども

が歩いている、そのことがまた妙に不思議だったあの思いを、あれから五十数年

も生きさせてもらった今も、忘れることができません。

 

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