正楽寺日誌 つれづれなるままに 正楽寺日誌 つれづれなるままに

辛抱してもらって
生きてきた私

闇が深まるほど星が輝きますように、より深い暗がりの旅をつき進む私たちを見かね、真如の世界にじっとしておれず、声になって飛び出してきて下さったのが南無阿弥陀仏さまなのです。だから「南無阿弥陀仏」は、天地一杯にみちみちて、働きづめに働いて下さっている尽十方無碍光如来さまの大悲のこりかたまりであり、不可思議光如来さまのおいのちのしぼり汁ともいえましょう。

 

私が他所へ出かけるとき、自転車で六キロばかり山を下るのですが、途中、地蔵峠という坂道にお地蔵さまが立っておられます。出がけには「ご挨拶を忘れぬように・・・」と自分に言い聞かせるのですが、坂道を風を切って下るのが気持ちいいものですから、たいていご挨拶を忘れてしまいます。ところが、自転車を押して坂道を上がる帰りのときは、いつもハッとします。お地蔵さまが私を拝んで下さっているのです。
私がご挨拶を忘れて坂を下るときにも、やはり拝んでいて下さったに違いないのです。
私が合掌するよりも先に、拝んで下さっているのです。

 

そのとき、いつも「五濁悪事悪世界 濁悪邪見の衆生には 弥陀の名号与えてぞ恒沙の諸仏すすめたる」の御和讃を思い出すのです。ガンジス河の砂の数ほど沢山の仏さまが、濁りに濁り汚れた今の時代に、濁悪邪見のお前が救われる道はお念仏以外にないぞ、目覚めてくれよと、掌を合わせて私に頼んで下さっていることに気付かせていただくのです。拝まない者も、拝まないときも、拝まれているという、大いなる願いに願われている私に気付かせていただくときに、大いなる生命と一つながりにつながらせていただけます。
(※「尽十方無碍光如来」とは、智慧の光で十方の世界を照らし、さわりなくことごとく生きとし生けるものをお救い下さる仏さま、「不可思議光如来」とは、人間の考えや思いをはるかにこえた智慧で、私たちをお救い下さるという仏さまという意味で、どちらも阿弥陀仏のお徳を表したもの)

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