近頃の子どもは、私たちの子どもの頃とは違った金銭観をもっているようです。「お金は生きて太っていくものだ。貸せば利子がつき、借りれば利子をとられる。その太り方は、何年かたてば、決してばかにならないものになる」と考え、きょうだいでも利子を取り合ってお金の貸し借りをしているといいます。
ある中学一年の女生徒は作文に「私は高校を出たらすぐ結婚する。結婚したらなるべくはやく離婚し、いしゃ料をとって貯金する」と書いたといいます。
小学生の頃から、お手伝いはもちろん、弟や妹に勉強を教えるのも、テストで百点をとるのも、みんなそれが財源になるように育てられているからでしょう。
これから厳しい世の中を生きぬいていかなければならない子どもたちです。そういうがめつさも、悪いとばかりはいえないでしょう。しかし、お金に頭を縛られてしまうと、お金を超えたところにある、人生の味やよろこびが見えなくなってしまう危険があります。生きるよろこび、感動の味わえない子どもに育ててしまっては、とり返しのつかないことになってしまいます。そのためには、まずお母さん方が、感動のある人生、こころの味を大切にするお母さんになってくださらなければなりません。
まだ学校給食が今のように普及していないころ、私は、子どもたちに
「自分の弁当くらい自分で詰めてこい」
と言っていました。お母さんの忙しさをよく知っていましたので、少しでもお母さんの手をとらせないようにさせたい配慮から、そう言わずにおれなかったのでした。
ところが、私は、これは私のまちがいではないかと思うようになりました。
それは、ときどき、お母さんに弁当を入れてもらってきた子どもの、弁当の蓋をあけるときの、何とも言えない楽しそうな顔、蓋の横から、何がはいっているかのぞき込むようにして、やおら蓋をあける様子、好きな卵焼きなんかがはいっていたときの、何ともいえない美しい顔の輝きなどを見ていると、お弁当の時というのは、お母さんとの出会いの時だと思うようになったからです。
そして、輝雄君が次の詩を見せてくれてからは、その思いが決定的になってしまいました。
*かつお(かつおぶし)
けさ 学校に来がけに
ちょっとしたことから母と言いあいをした
ぼくは
どうにでもなれと思って
母をぼろくそに言い負かしてやった
母が困っていた
そしたら 学校で 昼になって
母の入れてくれた弁当の蓋をあけたら
ぼくのすきなかつおぶしが
パラパラと ふってあった
おいしそうに におっていた
それを見たら ぼくは
けさのことが思い出されて 後悔した
母は いまごろ さびしい心で
昼ごはんたべているだろうかと思うと
すまない心が
ぐいぐいこみあげてきた。
というのです。「すまない心」というのは、人間の一番奥底に潜んでいる一番人間らしい心です。いのちの真清水とでもいうべき心です。そのすばらしいものが、とどめようとしてもとまらないようないきおいで、「ぐいぐい」こみあげてきているのです。
お母さんを「ぼろくそ」に言い負かして得意になって学校にやってくるような輝雄君のために、輝雄君の大好きな「かつおぶし」を「パラパラ」ふりかけてやらずにおれないお母さん、そのお母さんに、輝雄君は「お弁当」を通じて出会っているのです。











