正楽寺日誌 つれづれなるままに

しあわせに小さいのはない
大きいのばかり

 私たちは、うっかりしていると、すばらしい尊いものを泣き言のタネにしてしまいがちです。

よくよく考えてみると、ほんとうは、しあわせには小さいのはひとつもないのではないでしょうか。

大きいのばっかり

  しあわせには

  小さいのはない

  大きいのばっかり

  ちょっと見ると小さく見えるのも 

  ほんとうは

  わたしには過ぎた

  大きいのばっかり。

こんな思いがしてきます。自分のねうちをよくよく見ると、まわり中にご厄介ばかり

かけている私には過ぎたしあわせばかりという思いがしてくるのです。

 私は、小さいノートを持ち歩いておりまして、よろこびが見つかると、それを

書きとめておくように努めているのですが、うっかりしていると見すごしてしまい

そうな小さく見えるよろこびが、みんな、すばらしい大きいしあわせにつながっている

ことに気づかせていただくのです。若い頃にはうっかりしていたことの中に、

こんな大切なしあわせがあったということを驚くとともに、こういうしあわせにであわせて

いただけるのは、年とったおかげさまかな、と、よろこばせていただくのです。

 

明けまして 南無阿弥陀仏

今年も皆様に新年のご挨拶をさせていただきます事、本当に嬉しい限りです。

 

今年はいよいよ東京オリンピックが開催されます。

住職自身、初めて自国で開催されるオリンピックを迎えますので、
実際に試合会場で応援することは出来ないながらも、とても楽しみに開催を待ち望んでおります。

その一方で、先代住職が生前、呟いていた言葉を思い出します。

「東京オリンピック見たいなぁ。見られるまで頑張れるかなぁ。」という言葉を。

 

これまでも何度も申し上げておりますとおり、私たちの生命は、いつ、どこで、どうなるか分からない、
そのようなご縁をいただいております。

何の保証もない生命をいただいている中で、滅多にない機会に恵まれるということは、
稀有なことであり、どれほどに尊い時間をいただいているのかと、私たちは気付かなくてはなりません。

普段から、そのことに中々気付けない私たちに、絶えず、伝え続けてくださっているのが、
仏様であり、先にお浄土へ還られた大切な方々です。

今年も大切なことを伝え続けてくださる方々へ、感謝のお念仏を声に出して、ご一緒にお称え致しましょう。

 

 

 

2020.01.01 川崎正月内陣   2019.01.02 竹の塚正月内陣

 

子どもはおとなの父
子どもは「いのち」のふるさと

 子どもは、ただのいのちを生きているのではありません。人間のいのちを生きて

いるのです。感じたり、思ったり、考えたり、意志して行動したり・・・という人間

のいのちを生きているのです。相手が子どもだからといってバカにすることは許されません。

幼い子どもでも、すばらしいいい子の芽をいっぱいもっているのです。

おとなが、おとなの思いあがりを捨てて、拝む心で接するとき、子どものいのちは、

おのずから、光りながら育ってくれるのです。

「この子さえいてくれなければ・・・」と考えたこともある子どもを「この子がい

てくれるおかげで・・・」と位置づけたときから教育は始まる。

 幼いことものことばに耳を傾けよう。そこには、私たちの心の帰着点である心の

ふるさとがある。

「ふるさと」そこから出てきた私。「ふるさと」それは私の還っていくところ。

 子どもを導かなければならない私が、子どもに導かれて、ここまで来させてもらったのです。

口がとがってしまうと耳が粗末になる
口より耳が大切なのに

 (※「聞法」「聴聞」という言葉があります。文字通り仏さまのみ教え<仏法>を

聞<聴>かせていただくという意味です。しかし私たちは、つい「私が私が」とい

う自我の意識が強く、素直に仏さまや相手の言葉を聞こうとしません。東井先生が

紹介されている次のお母さんの話は、そういう私たちの姿でもあるのでしょう)

          *             *

 五年生の子の日記に、

   僕のお母さんの叱り方は、大変面白い叱り方です。僕には一言もものをいわ

  せないで、ペラペラ、ペラペラ二十分間くらいつづけてお説教します。まるで

  『ビルマの堅琴』の映画でみた機関銃のようです。僕はその間よく聞いている

  ような格好を、しております。(あんまり聞いとらんらしい)お母さんは叱っ

  てしまうと、いつでも「わかったか」といいます。僕は何もわかりませんが

 「はい」と言うことにしております。

  先生、今日の日記のことは、お母さんに話さないでください。

 

 という日記を書いていますが、どうしても口がとんがってしまうのですね。耳が

粗末になるのですね。聞くということは解ってやるということでしょう。解ってく

れるもののためには、どんなつらいこともがんばるぞ、それが子どもというもので

すね。だから仏様の耳は大きな耳をしていらっしやる。私達の大事な胸の中のつぶ

やきも、ちゃんと聞いてくださってある。この仏さまのお耳に学ばしていただくと、

これはいい子にならずにはおれなくなるのですね。

仏さまはいつも
私たちの心の中に

 「泣」という字は、「サンズイ」に「立」という字が添えてあります。

「涙」という字は、「サンズイ」に「戻」という字が添えてあります。これは、私たちが深い

悲しみに出合い、涙に溺れてしまいそうになっているとき、それがどんなに深い悲しみ

でぁっても、必ず「立」ち上がらせずにはおかないという、仏さまの願いを表わすために

「サンズイ」に「立」を添えて「泣」という字にし、「涙」におし流されてしまおうとする

私たちを、必ず、引き「戻」してくださる仏さまのお心を表わすために「サンズイ」に「戻」

を添えて、「涙」という字にしてあるのだと聞いたことがあります。

 これに関連して思い出すのは、「観無量寿経」の中の「諸仏如来 是法界身 入一切衆生 心想中」

(諸仏如来は是れ法界の身なり。一切衆生の心想の中に入り給う)というおことばです。

如来さまは、いつも、私たちの心や想いの中におはいりくださって、私たちをお導きくださっているのです。

私たちが、悲しみの底に溺れて泣いているときには、新しい視点をお与えになって、立ち上がらせ、悲しみの涙に

おし流されてしまおうとしているときには、新しい生きがいをお示してくださって、引き戻してくださるのでしょう。

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