正楽寺日誌 つれづれなるままに 正楽寺日誌 つれづれなるままに

数えきれないほどのお米の一粒々々が
いまこの茶碗の中に私のために

 私のような情けない校長に「校長先生、おはようございます」二十一世紀を作って

いく子ども達が挨拶してくれる。なんという幸せだろうかと思いますと、一人一人の

子どもに言葉をかけずにおれません。私が回っていく頃になりますと、四月に入学し

た一年生も「校長先生、おはようございます」私に頭をなでてもらうために廊下に

次々に頭つき出して待ってくれております。「おお、おはよう。今日、何頑張ってく

れるんやな」小さい一年生の頭の熱さが、この「もえさし」の、やせた腕に伝わって

きます。二十一世紀を作っていく熱っぽいエネルギーが伝わってきよる、と思うと、

何という幸せだろうか。そこに、私の幸せのすべてが、ございました。

 でも、それもとうとう燃えつきてしまったわけですが、寂しいことですね。年が寄

るということは、しかし、この寂しさにやっぱり寄りそってはたらきづめにはたらい

て下さっている「はたらき」がなかったら、どういうことなんでしょう。これに寄り

そって下さっているこのお慈悲がなかったら、もう大変ですね。年、寄らせていただ

いたお陰で、私はいつもこんな帳面持ち歩いて、その時々の味わいを書きつけること

にしております。

 こんないただき方では

もったいない

すまない

せめて 噛むだけでも

ていねいに噛ませてもらわなければ……と。

ご飯粒に

南瓜に

茄子に

茄子のごまあえのごまに

詫びながら

噛ませてもらう

食欲不振の

尊いいのちをいただきながら

すみません

南無阿弥陀仏。

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