正楽寺日誌 つれづれなるままに 正楽寺日誌 つれづれなるままに

力をぬいたとたん
世界がひらける

私が、若い頃読みふけった懐しい書物の中の一冊に、出隆先生の『哲学以前』があります。出隆先生は、哲学者であられるとともに、「神伝流」の水泳の達人でもあられたと聞いています。  その出隆先生が、何なかに「水泳」のことをお書きになっていました。「水は、人間を浮かせるだけの浮力をもっている。しかるに、人間が溺れるというのは、心の重みで溺れるのである。だから、溺れた人というのは、『こんな所で・・・・』と思われるほど、浅い所で溺れている。結局、水の浮力に足をとられてあわててしまい、その心の重みで溺れたのである。心を無にして、身も心も水に預ければ、自分の力を使わなくてもおのずから浮かぶ」というような内容の文章でした。  出隆先生の、「心を無にして、身も心も水の浮力に預ければ、おのずから浮かぶ」というお言葉は、親鸞聖人が「如来の本願力に乗托すれば、おのずから然らしむる自然法爾の世界を恵まれる」と教えくださっていることにも通じているように思います。またそれは、私が子どもの日、あの熱くて熱くてたまらなかったお灸の熟さが、「きばり心」を抜いたとたん、あんな快い安らぎの世界に変わったことにも、つながっている気がするのです。  私は、初め、お灸の熱さに負けまいとする「きばり心」の重みで、熱さの底に沈み、熱さの苦しみに溺れていたのです。それが「きばり心」を捨てたとたん、熟さが苦にならない世界に浮かせてもらったのです。  どなたのお作か存じませんが、「散るときが浮かぶときなり蓮の花」という句が思い出されます。「自分・・・・・・」という「我」が散ったとき、ポッカリ、安らぎの世界に浮かばせてもらうのです。水に「浮力」があるように、私に注がれている「本願力」が、沈むしかない私を、浮かせてくださるのです。

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