正楽寺日誌 つれづれなるままに 正楽寺日誌 つれづれなるままに

悲しみを通さないと
見えてこない世界がある

これは、相田みつをという方の詩です。聞いてください。

 

なみだをこらえてかなしみにたえるとき
ぐちをいわずにくるしみにたえるとき
いいわけをしないでだまって
批判にたえるとき
怒りをおさえて屈辱にたえるとき
あなたの眼のいろがふかくなり
いのちの根がふかくなる

 

悲しみ・苦しみ・怒り・屈辱にであったとき、私自身、この詩を口ずさんでいると、何だかほほえみが浮かんでくるのです。そういうことで、もうひとつ、私がよく口ずさんで、自分を励ます詩があります。野村康次郎という方の詩です。

 

雨は
ウンコの上にもおちなければなりません
イヤだといっても
ダメなのです
だれも
かわってくれないのです

というのです。この詩は、私を励ましてくれるだけでなく、ひとりの問題の子どもを生まれ変らせてくれた詩でもあります。

 

奈良県の小学校の先生が、私の書物の中でこの詩をご覧になり、好きになり、墨で大きく書いて額に入れて教室に掲げておられたのだそうです。
その組にN君という荒れた子がいました。荒れざるを得なかったのです。お父さんが、この子のお母さんとこのN君と、弟を追い出したのです。それでお母さんと三人で暮していたのですが、お母さんは交通事故で亡くなってしまわれ、弟は施設に預けられ、N君は病気のおじいさん、おばあさんのところに預けられました。おばあさんは、耳が聞こえず、口もきけない方だったそうですが心不全で入院されました。肺ガンで床に就いておられたおじいさんは、そのショックで亡くなってしまわれました。
それでN君は、追い出したお父さんの家に返され面白くない日を過ごすことになったのですが、そういう中で、ずいぶん荒れた子になってしまっていたのです。

 

それが、六年になって、担任してもらった先生が「ウンコ」の詩を教室に掲げておられたのです。はじめのうちは、これを見てもせせら笑ってバカにしていたそうですが、だんだん、担任の先生の人柄に心を惹かれるようになっていきました。そして、ある日の授業時間の途中、N君はハッとしたのです。「ウンコ」というのは、自分がいままで出あってきたあのイヤなことではないか。すると雨は自分ということになる。雨はウンコの上にでもまっすぐおちていっている。それだのにぼくは、次々にやってくるいやなことを憎み、やけをおこしていた。そうだ、これからは、いやなことから逃げ出そうとしたり、ブツブツいってやけをおこすのではなく、いやなこといっぱいやってこいと、こちらからぶつかっていってやろうと考えるようになったというのです。ところが、不思議なことに、あまり好きになれなかった算数までがおもしろくなってきたというのです。

 

受けとめ方によっては、イヤなことまで、光った存在に変わってくれるのです。ただ一度の人生を空しいものにしてしまわないために、心に刻んでおいてほしいのです。

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