正楽寺日誌 つれづれなるままに

聞くということは 吸収すること

私は長い間、教員をやってきました。

私たちは、授業の一環として、話し合いという時間を設けています。

しかし、私は九州から北海道まで、あちらこちらの授業を拝見させていただいて、

これが本当の話し合いだというのには、ほとんど出会うことができません。

言い合いなんです。

そして、言い合いだから討議になります。

討議はやっつけ合いです。

本当の話し合いというのは、じつは聞き合いなんですね。

だから今の若者たちの像を漫画で書くとすれば、文句はよく言うようになったから、

口は相当に大きい。大きいだけでなく、人をやっつけるような口ですから、

するどくとがって発達している。

目は、よろこびやしあわせが、いっこうに見えず、見えるのは不平、不満ばかりで、飛び出した目になる。

耳はどのように書けばいいかといえば、あるかないかの点ぐらい打っておけばいいのではないでしょうか。

聞くということを粗末にして、やっつけ合いを育てることが、子どもの自主性を育てることだと考え違いをしてきたようです。

私は、これが本当の聞き合いだなと思いましたのは、北海道の根室のある小学校を訪れたときでした。

ここは1900人の児童数の大きな小学校ですが、1年生の教室で子どもたちが話しているのを聞くと、

子どもの顔ってこんなにも美しいものかなと思うほど、輝いた顔で話しているその声が、私の声のようにとがっていないのです。

それはどうしてかといいますと、本当にいい顔して相手の言葉をうなずいて吸収して聞いているから、

とがった声でなく、しみ込んでくるような声になっているのです。

そして他の子どもがしゃべり出すと、みんなh身も心もそちらに向いて、うなずきながら聞いている、

これが本当の話し合い、聞き合いなんですね。

 

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