仏事の心得仏事の心得

浄土真宗の日の良し悪し

新しい年を迎えました。

今年も皆さまとご一緒に阿弥陀仏の教えを拠り所とする一年を過ごせればと思うことです。

現代日本においては「私は無宗教です。」と言われる方も少なくないように思いますが、
そのような方でも、正月には初詣に行き、日の良し悪しを気にされます。

十二月二十九日について、ある人は「今日は二十九日。【二重苦】だから、正月飾りをしてはいけない。」と言われ、
別の人は「今日は二十九日。【福】だから、正月の餅つきをしましょう。」と言われました。

これは、私達が自分の都合の    良いように物事を理解し、同時に迷信俗信に囚われていることの表れでもあります。

 

年末だけでなく、日頃から、日の良し悪しを気にされる方もいらっしゃるでしょう。

 吉凶を表すものの一つとして、「六曜」があります。

その日が「吉日」とされる「大安」の日であっても、試験に落ちれば、その人にとっては「悪い日」です。

皆様ご承知の通り、吉日を選んでも、必ず成就するとは限りません。

一方で、一般的に大凶日とされる「仏滅」の日であっても、結婚式を挙げれば、その人にとっては「良い日」になります。

鎌倉時代末期の歌人・兼好法師が『徒然草』に「吉凶は人によりて日によらず」と記されているように、
吉凶はその人の行いによるのであって、日に良し悪しはありません。

 

また、仏事について「ご法事は故人の命日までにお参りしなければならない」と思い込まれている方もいらっしゃいます。

これは本来、「先立っていかれた方のご法事を忘れることなく、しっかりお参りしなさい。」という意味なのですが、
「命日までにお参りしないといけない。」という言葉だけがひとり歩きしてしまい、
その言葉に囚われている方も少なくありません。

ご法事は、故人が私たちのために生命をかけてご用意くださった大切なご仏縁です。

祥月命日の前でも後でも、そのご縁に遇うことが大切なのです。

 

私たちは不安や焦りを抱えながら生きていて、時として迷信や俗信に惑わされることがあります。

そんな私たちだからこそ、因果の道理、全ての結果には、必ず原因があることをわきまえて、
かけがえのない一日一日を精一杯に生きていきたいものです。

 

今年も「今日【は】良い日」ではなく、「今日【も】尊い一日」といただいて、日々を過ごしてまいりましょう。

健康に生きる~心の健康~

「健康=身体のこと」という認識を持っている方は多いでしょう。

しかし、WHOにおける健康の定義は「身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態であり、

単に疾病のない状態や病弱でないことではない」とされています。

つまり、身体のこと以外に「心の健康(精神的)」と「社会の中に自分の居場所があること(社会的)」を含め健康と定めています。

健康へのアプローチは様々ですが、「今ここにいる私のため」の教えである仏教を聞き続けることは、

心を育み、心を良好(健康)な状態に保つことにつながると思います。

 

浄土真宗では、阿弥陀様の教えを喜ばれ、報恩感謝の人生を送られた人を「妙好人(みょうこうにん)」と呼びます。

その一人に「因幡の源左(いなばのげんさ)」という方がいらっしゃいました。

源左は十八歳の時に父親を亡くしました。

その父親の遺言が「おらが死んで淋しけりゃ、親をさがして、親にすがれ」というものでした。

浄土真宗では、私が頼む前から、「我にまかせよ、必ず救う」と慈しみお育てくださる阿弥陀様を「親様」と仰ぎます。

「親をさがして、親にすがれ」というのは、阿弥陀様を頼れということですが、源左にはその意味が分かりませんでした。

しかし、阿弥陀様の教えを聞き続ける中で、次第に、あらゆる出来事には、阿弥陀様のお手まわしが行き届いていると感じ取る、

豊かな心を育んでいったのです。

 

そんな源左の有名なエピソードがあります。

ある夏、夕立にあってずぶ濡れになり帰ってきた源左を見た人が「よう濡れたのう」と声をかけると、

源左は「鼻が下に向いとるで、有難いぞなぁ」と言いました。

「この鼻が上向きについておれば、雨はみな鼻の穴に入ってしまうが、

下向きについてくださるおかげで、息がつまらず苦にならん、

親様は何でもええやぁにしてくださるで、何で小言がいわれようかいなぁ」と喜ばれたそうです。

 

頭では分かっていても、実際に心底実感できる人はどれほどにいるでしょうか。

当たり前が当たり前でないと気付けると、感謝とお陰さまの世界に出遇うことができます。

それは、心を育むということでしょう。

源左もすぐに、この境地に至ったわけではありません。

長い時間「親をさがして、すがるとは、どういうことか」と聞き続けた先に開けた世界であります。

この源左の姿勢から、人生の問いは一生をかけて問い続けなくてはならないことを教えられます。

今回は「心の健康」を中心に書かせていただきましたが、次回はもう一つの「社会的健康」をテーマに書かせていただきます。

仏法の水に我が身を浸す

新しい年を迎えました。

昨年も有縁の皆様とご一緒に、葬儀や法事といったお参りの時間を持たせていただいたことです。

老若男女、様々な方を偲ぶご仏事のご縁を頂戴いたしましたが、
その度に「私たちの生命は時間に限りのあるもの、いつどこでどうなるか分からない生命をいただいている」と、
住職自身が教えていただいたことでした。

 

「新年は祝うもの」というのが一般的な考え方でしょう。

その理由の一つに、元々「年取りの祝い」というものがあったそうです。

かつては、正月が来る度に、皆一斉に年を取る「数え歳」で年齢を数えていたためです。

一般的に「年齢を重ねることは嬉しいことではない。」と言われる方が多いようです。

しかし、個人的に思うことは「いつまで生命が在るかわからないにもかかわらず、
今日までこの生命が続いてきたことは、すごいこと。
むしろ、年齢を重ねる方が、有難く、喜ばしいことなのではないか。」ということです。

 

私がこのように思えるようになったのは、仏様の教えてくださる不変の真理、

先立たれた方々が生命をかけて教えてくださったことを聞き続けてきたからです。

 

本願寺第八代宗主(しゅうしゅ)蓮如上人(れんにょしょうにん)の語録を集めた
『蓮如上人御一代記聞書(れんにょしょうにんごいちだいきききがき)』
という本の中に次のようなお話があります。

 

ある人が
「私の心はまるで(目の粗い)籠に水を入れるようなもので、ご法座を聞くお座敷では、ありがたい、尊いと思うのですが、
その場を離れると、たちまち元の心に戻ってしまいます。」
と打ち明けられました。

 

すると蓮如上人は
その籠を水の中につけなさい。我が身を仏法(教え)の水の中にひたしておけばよいのです。
と仰せになったということです。

 

仏様の教えを聞き続ける中で、いつも仏様や先立たれた方々に寄り添われている我が身であることに気付かされ、
仏様の教えを心の拠り所・生きる糧としようと心がけることは大切なことです。

しかし、私たちの 心はコロコロと移ろいやすいものです。

だからこそ、「仏法の水の中に籠をひたす」つまり「教えを聞き続ける環境に身を置く」ことを蓮如上人はおすすめくださるのでしょう。

 

仏様の教えを聞き続けることで、新たな発見、腑に落ちることがあるというのは、

新しい世界が開けるようで、有難く、嬉しいものです。

その積み重ねが心を育み、心が満たされ、仏様の教えが心の拠り所・生きる糧となっていきます。

今年も「仏法」という水の中に、「私」という籠を浸せるよう、ご一緒にお参りし続ける一年にしましょう。

親鸞聖人のお念仏

先代住職がはじめた、この「仏事の心得」を受け継いで、五年以上の月日が過ぎました。

仏教用語を分かりやすく説明するため、未だに試行錯誤の連続です。

いかに「何となく」「雰囲気で」しか理解していなかったと気付かされることが多々あります。

そのように振り返ってみますと、それは、阿弥陀様のおはたらきと似ているように思いました。

 

阿弥陀様のおはたらきに姿形はありません。確かに「在る」ものだけれど、形のない

ものは、私達には理解しづらいので、そのおはたらきを「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」の六字とされました。

「南無阿弥陀仏」のお念仏は

「悲しいときも、嬉しい時も、いつもあなたの側に居りますよ。

そして、あなたの生命尽きる時、必ず仏の世界・お浄土に生まれさせますよ」

と、私にどこまでも寄り添い続けて下さる阿弥陀様の喚び声であります。

 

私たちは、物心ついた時には、親のことを「お父さん」「お母さん」と呼んでいました。

そこに至るまでには、何度も「お父さんですよ」「お母さんですよ」と、呼びかけ続けてくれたことでしょう。

私たちは、それを聞き続けることによって、気付けば、そのように呼んでいたのです。

それと同様に「必ず救い摂りますからね」と、願いを込めて「南無阿弥陀仏」のお念仏となり、私たちに絶えず喚びかけ続けて下さっているのです。

 

親鸞聖人は、そのようなお念仏の教えについて

「ひとへに親鸞一人がためなり(この親鸞一人をお救いくださるためであった)」(歎異抄)

と、大変喜ばれました。

 

親鸞聖人の一生は波乱万丈なものでした。

九歳の時に、出家せざるを得ない境遇となり、比叡山に登られ、厳しい修行に20年間耐え抜かれました。

しかし、救いの道を見出すことができず、悩み苦しまれます。

その後も、念仏の弾圧、師・法然聖人との別れ、

越後への流罪、長男善鸞(ぜんらん)の義絶(ぎぜつ)(親子関係を絶つ)等の苦難に見舞われましたが、

いかなる状況であっても、親鸞聖人が心の支えとしていたのが、お念仏の教えです。

どのような自分であっても、「我にまかせよ、必ず救う」と約束してくださっているお念仏の教えを喜ばれたお気持ちを、

親鸞聖人は随所に記されています。

そのお気持ちは私達にも通ずるもので、触れやすいものになっています。

この度は親鸞聖人の御命日法要「報恩講」です。

この機会に、親鸞聖人のことを身近に感じるためにお参りしませんか?

それが、仏教や生き方と向き合う変化の一端を担ってくれるものと思います。

宗教は誰のもの?2

前回の仏事の心得では「仏様の教えは、私が信じ仰ぐもの」ということを書きました。

仏様の教えをどのように受け取り、信じ仰ぐかによって立場が別れてきます。

それ故に、私たちの浄土真宗以外にも「宗派」と呼ばれるものが、いくつも存在します。

 

浄土真宗の教えをいただく人たちは、「他力本願」という言葉を大切にしてきました。

一般的には「自分で努力をしないで他人の力を当てにする」という意味で使われることが多いようですが、

これは本来の意味ではありません。

「他力」とは、他人の力ではなく、仏様の力。

阿弥陀様の私たちを救わずにはおれないという願いのはたらき、これが「他力本願」なのです。

しかし、この阿弥陀様の救い、仏様の救いに対する疑いの心が「私が信じ仰ぐもの」として受け容れられない、

「宗教を信じることが出来ない」という現代の宗教離れの一因になっているように思います。

 

仏様がはたらいてくださる様子が、人間が動くのと同様に目に見えないものだから、

信じ難い、怪しい、というものです。

しかし、目には見えなくても確かに存在するものはあります。

優しさや悲しみのような人の気持ちは目に見えず、科学的に証明出来ませんが、確かに存在します。

 

私たちは「死」という不変の真理から逃れることは出来ません。

しかし、死後の世界の ことは分からなくて、不安や恐怖を抱きますので、

目を反らし、自分のことではないと横に置いてしまいます。

しかし、横に置いたからといって、「死」から逃れられることは出来ません。

「いつ死ぬかも分からない私の生命」だからこそ、阿弥陀様の願いを知り、自分の生命の在り方を問う。

その姿勢は、精一杯に生きる糧となります。

さらに、生きている今、我が身を振り返り、聞かせていただくからこそ、

自分の至らなさ、愚かさに気付くことが出来ます。

そして、同時に「生命終えた後、必ずあなたを浄土に救い摂る」と誓い、

はたらき続けてくださる阿弥陀様の有難さに気付くことが出来るのです。

 

本来であれば、日頃からそうありたいのですが、悲しいかな、中々出来ない私たちです。

そのような私たちに自分の生命、阿弥陀様の願いと向き合うご縁を結んでくださるのが先立たれた方々です。

また、阿弥陀様に出遇い、そのはたらきをよろこんでいる人の姿を通して、

私が阿弥陀様のはたらきを知らされるということもあると思います。

この度のお盆法要も、浄土真宗の教えをいただく仲間と共に、先人たちを偲び感謝して、 

私が信じ仰ぐ話を聞かせていただく時間を過ごしましょう。

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