仏事の心得仏事の心得

三毒の煩悩

六月二十日は東京正楽寺第二代住職の祥月命日です。

昭和二十年、第二次世界大戦の中、沖縄での戦死であったと聞いております。

旧盆の時期でもある八月十五日が終戦日ということもあり、
お盆法要の準備を始める六月頃から夏にかけては、普段以上に強く戦争を意識します。

終戦後の昭和二十六年、サンフランシスコ講和条約が締結されました。

これは、日本政府が連合国四十八カ国と戦争状態を終わらせるために締結した講和条約です。

その際、セイロン(現在のスリランカ)は、日本に対する損害賠償請求権を自発的に放棄し、大きな反響を呼びました。

そして、放棄の理由として挙げられたのが

「怨みは怨みによって鎮まらない 怨みを忘れて はじめて怨みは鎮まる」(法句経)

という、お釈迦様のお言葉でした。

 

「喜怒哀楽」という言葉があるように、私たちには様々な感情があります。

日常生活を送る中で、怒りや憎しみ、怨みに心が囚われることがあります。

仏教では、その心を「瞋恚(しんに)と言います。

また、むさぼり・求める心を「貪欲(とんよく)」、

愚かで真理を知らないことを「愚痴(ぐち)」と言います。

これら三つは人間の根本的な煩悩として「三毒(さんどく)の煩悩(ぼんのう)呼ばれております。

 

私たちは常に「あれがほしい」「こうなりたい」等の求める心が尽きません。

そして、思い通りにならないと

「なぜ、こうならないんだ」「どうして、ああしてくれないのか」等と腹を立て、怒り・憎しみ・怨みへとなります。

それらの感情が起こるのは、「私の思い通りにしたい」と、目先のことに囚われて、
因果の道理等の真理を知ろうとしない、愚かな心があるからなのです。

私たちの感情や長年積み重ねてきた考え方を手放すということは、容易なことではありません。

ですが、我が身を振り返り、自分の行動パターンや傾向を知り、一度立ち止まってみることはできると思うのです。

 

この度は、お盆法要のご縁です。

昔から、浄土真宗ではお盆法要(盂蘭盆会(うらぼんえ))のことを「歓喜会(かんぎえ)」と呼び、

仏様の教えを喜んでいただく機会として、大切にされてきました。

先立たれた方々を偲ぶ中で仏様の教えに触れ、改めて我が身を省みる時間として、ご一緒にお参りさせていただきましょう。

いつも あなたのそばに

日本最古の仏壇をご存知でしょうか。

それは飛鳥時代の「玉虫厨子(たまむしのずし)」です。

七世紀中頃、推古天皇が朝夕拝まれる念持仏として作られたとされています。

その後、685年3月27日、天武天皇が「諸国の家毎に仏舎を作り 即ち仏像と経を置き 礼拝供養せよ」と勅命を出されました。

それが仏壇普及のはじまりと言われ、3月27日は「仏壇の日」とされています。

ただし、当時の仏教は一部の人だけのもので、市井の人々の間で仏壇が普及するようになったのは江戸時代、幕府の寺請制度の政策がきっかけでした。

 

浄土真宗では、室町時代、本願寺の第八代宗主蓮如上人が「南無阿弥陀仏」の名号を下付されたことにより、

人々が仏様に手を合わせてお参りするという習慣が根付きました。

そして蓮如上人は「本尊は掛けやぶれ」と仰いました。

当時、御本尊(名号)を全ての家にご安置することは難しいことだったと思います。

恐らくは、講(人々が集まりお参りする会のこと)の際、その都度、御本尊を掛け直していくということを繰り返すため、

「掛けやぶれるほど、何度もお参りをしてください」という意味で仰ったのだと思います。

それは、仏様に手を合わせお参りすることの大切さを説かれたお言葉です。

 

浄土真宗における仏壇は、お寺の本堂を模したものとされています。

浄土真宗のお寺の本堂は仏説阿弥陀経に説かれる西方極楽浄土を表現するために金色を基調としています。

ご家庭での本堂がお仏壇ですので、浄土真宗では金仏壇が正式とされています。

また、「仏壇は家長などの誰かが受け継げば良い」という考え方をお持ちの方が少なくないようですが、

お参りをして仏様の教えを聞くということは、「一家の誰かが代表して行う」というものではありません。

それぞれが日々お参りをして、生活の中で感謝の思いと我が身を省みる場所として、お仏壇を構えていただくことが望ましいのです。

 

全ての方にとって、ご家庭のお仏壇という場所は、先立たれた方を偲ぶ中で、仏様を身近に感じる場所であってほしいと思います。

お子様がぬいぐるみや人形を友だちとして、いつもそばに置き、話しかけるように、

皆様にとっての仏様も、いつも傍にいて、ただ黙って私の話を聞き、寄り添ってくださる。

お仏壇・仏様は「特別な場所」ではなく「一番身近な場所」であってほしいと思います。

浄土真宗の日の良し悪し

新しい年を迎えました。

今年も皆さまとご一緒に阿弥陀仏の教えを拠り所とする一年を過ごせればと思うことです。

現代日本においては「私は無宗教です。」と言われる方も少なくないように思いますが、
そのような方でも、正月には初詣に行き、日の良し悪しを気にされます。

十二月二十九日について、ある人は「今日は二十九日。【二重苦】だから、正月飾りをしてはいけない。」と言われ、
別の人は「今日は二十九日。【福】だから、正月の餅つきをしましょう。」と言われました。

これは、私達が自分の都合の    良いように物事を理解し、同時に迷信俗信に囚われていることの表れでもあります。

 

年末だけでなく、日頃から、日の良し悪しを気にされる方もいらっしゃるでしょう。

 吉凶を表すものの一つとして、「六曜」があります。

その日が「吉日」とされる「大安」の日であっても、試験に落ちれば、その人にとっては「悪い日」です。

皆様ご承知の通り、吉日を選んでも、必ず成就するとは限りません。

一方で、一般的に大凶日とされる「仏滅」の日であっても、結婚式を挙げれば、その人にとっては「良い日」になります。

鎌倉時代末期の歌人・兼好法師が『徒然草』に「吉凶は人によりて日によらず」と記されているように、
吉凶はその人の行いによるのであって、日に良し悪しはありません。

 

また、仏事について「ご法事は故人の命日までにお参りしなければならない」と思い込まれている方もいらっしゃいます。

これは本来、「先立っていかれた方のご法事を忘れることなく、しっかりお参りしなさい。」という意味なのですが、
「命日までにお参りしないといけない。」という言葉だけがひとり歩きしてしまい、
その言葉に囚われている方も少なくありません。

ご法事は、故人が私たちのために生命をかけてご用意くださった大切なご仏縁です。

祥月命日の前でも後でも、そのご縁に遇うことが大切なのです。

 

私たちは不安や焦りを抱えながら生きていて、時として迷信や俗信に惑わされることがあります。

そんな私たちだからこそ、因果の道理、全ての結果には、必ず原因があることをわきまえて、
かけがえのない一日一日を精一杯に生きていきたいものです。

 

今年も「今日【は】良い日」ではなく、「今日【も】尊い一日」といただいて、日々を過ごしてまいりましょう。

健康に生きる~心の健康~

「健康=身体のこと」という認識を持っている方は多いでしょう。

しかし、WHOにおける健康の定義は「身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態であり、

単に疾病のない状態や病弱でないことではない」とされています。

つまり、身体のこと以外に「心の健康(精神的)」と「社会の中に自分の居場所があること(社会的)」を含め健康と定めています。

健康へのアプローチは様々ですが、「今ここにいる私のため」の教えである仏教を聞き続けることは、

心を育み、心を良好(健康)な状態に保つことにつながると思います。

 

浄土真宗では、阿弥陀様の教えを喜ばれ、報恩感謝の人生を送られた人を「妙好人(みょうこうにん)」と呼びます。

その一人に「因幡の源左(いなばのげんさ)」という方がいらっしゃいました。

源左は十八歳の時に父親を亡くしました。

その父親の遺言が「おらが死んで淋しけりゃ、親をさがして、親にすがれ」というものでした。

浄土真宗では、私が頼む前から、「我にまかせよ、必ず救う」と慈しみお育てくださる阿弥陀様を「親様」と仰ぎます。

「親をさがして、親にすがれ」というのは、阿弥陀様を頼れということですが、源左にはその意味が分かりませんでした。

しかし、阿弥陀様の教えを聞き続ける中で、次第に、あらゆる出来事には、阿弥陀様のお手まわしが行き届いていると感じ取る、

豊かな心を育んでいったのです。

 

そんな源左の有名なエピソードがあります。

ある夏、夕立にあってずぶ濡れになり帰ってきた源左を見た人が「よう濡れたのう」と声をかけると、

源左は「鼻が下に向いとるで、有難いぞなぁ」と言いました。

「この鼻が上向きについておれば、雨はみな鼻の穴に入ってしまうが、

下向きについてくださるおかげで、息がつまらず苦にならん、

親様は何でもええやぁにしてくださるで、何で小言がいわれようかいなぁ」と喜ばれたそうです。

 

頭では分かっていても、実際に心底実感できる人はどれほどにいるでしょうか。

当たり前が当たり前でないと気付けると、感謝とお陰さまの世界に出遇うことができます。

それは、心を育むということでしょう。

源左もすぐに、この境地に至ったわけではありません。

長い時間「親をさがして、すがるとは、どういうことか」と聞き続けた先に開けた世界であります。

この源左の姿勢から、人生の問いは一生をかけて問い続けなくてはならないことを教えられます。

今回は「心の健康」を中心に書かせていただきましたが、次回はもう一つの「社会的健康」をテーマに書かせていただきます。

仏法の水に我が身を浸す

新しい年を迎えました。

昨年も有縁の皆様とご一緒に、葬儀や法事といったお参りの時間を持たせていただいたことです。

老若男女、様々な方を偲ぶご仏事のご縁を頂戴いたしましたが、
その度に「私たちの生命は時間に限りのあるもの、いつどこでどうなるか分からない生命をいただいている」と、
住職自身が教えていただいたことでした。

 

「新年は祝うもの」というのが一般的な考え方でしょう。

その理由の一つに、元々「年取りの祝い」というものがあったそうです。

かつては、正月が来る度に、皆一斉に年を取る「数え歳」で年齢を数えていたためです。

一般的に「年齢を重ねることは嬉しいことではない。」と言われる方が多いようです。

しかし、個人的に思うことは「いつまで生命が在るかわからないにもかかわらず、
今日までこの生命が続いてきたことは、すごいこと。
むしろ、年齢を重ねる方が、有難く、喜ばしいことなのではないか。」ということです。

 

私がこのように思えるようになったのは、仏様の教えてくださる不変の真理、

先立たれた方々が生命をかけて教えてくださったことを聞き続けてきたからです。

 

本願寺第八代宗主(しゅうしゅ)蓮如上人(れんにょしょうにん)の語録を集めた
『蓮如上人御一代記聞書(れんにょしょうにんごいちだいきききがき)』
という本の中に次のようなお話があります。

 

ある人が
「私の心はまるで(目の粗い)籠に水を入れるようなもので、ご法座を聞くお座敷では、ありがたい、尊いと思うのですが、
その場を離れると、たちまち元の心に戻ってしまいます。」
と打ち明けられました。

 

すると蓮如上人は
その籠を水の中につけなさい。我が身を仏法(教え)の水の中にひたしておけばよいのです。
と仰せになったということです。

 

仏様の教えを聞き続ける中で、いつも仏様や先立たれた方々に寄り添われている我が身であることに気付かされ、
仏様の教えを心の拠り所・生きる糧としようと心がけることは大切なことです。

しかし、私たちの 心はコロコロと移ろいやすいものです。

だからこそ、「仏法の水の中に籠をひたす」つまり「教えを聞き続ける環境に身を置く」ことを蓮如上人はおすすめくださるのでしょう。

 

仏様の教えを聞き続けることで、新たな発見、腑に落ちることがあるというのは、

新しい世界が開けるようで、有難く、嬉しいものです。

その積み重ねが心を育み、心が満たされ、仏様の教えが心の拠り所・生きる糧となっていきます。

今年も「仏法」という水の中に、「私」という籠を浸せるよう、ご一緒にお参りし続ける一年にしましょう。

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