正楽寺日誌 つれづれなるままに

「モノ」のいのちを
いとおしむ心

 「おはよう」の挨拶がすむと、私は「痛いだろうか?」と言いながら、いきなり朝礼台の上で

私の腕を曲げてみせました。不意にそんなことをするものですから、大きい子どもたちは私の意図を読みかねて、

あっけにとられている様子でした。ところが、一年生の子どもが「痛うないです」といってくれました。

「じゃ、こっちむきに曲げたら?」といいながら、関節を逆に曲げようとしました。

「校長先生、そんなことしたら痛いです」

と言ってくれたのは、やはり一年生でした。

「そう、こんな方に曲げたら痛いね。骨がこわれてしまうね。でもね、きのうみんなが帰るのを見ていたらね、

運動場で、こうもり傘をビューンと急にふり回すもんだからね。こうもり傘が朝顔みたいに上向きに開いてしまってね、

こうもり傘の骨が痛い痛い、痛いよって泣いているのに、その泣き声の聞こえない子がいたようだぞ。

それからね、みんなが廊下を歩いているのをみるとね、上靴の踵のところを踏みつけている子がいてね、

靴が、痛い、痛いと泣いているのが聞こえないのかなと思ったんだ。

もちろん、みんなの中には、こうもり傘や靴をいじめないばかりか、持ちものをかわいがってやっている人もたくさんいるんだが、

明日は、自分の大事に大事にしている物がある人は、それを持ってきて見せてくれないかね」

と頼みました。

 そういう次第で、あくる日は、はからずも「愛物展覧会」ができてしまいました。

 おじいちゃんの硯をお父さんが使い、それをぼくがもらって使っているという硯。

お母さんの下敷きをお姉さんが使い、破れたところにセロテープをはりつけてわたしが使っているという下敷き。

お父さんの小学校のときの鉛筆削りをもらって使っているという鉛筆削り。鉛筆が短くなって使えなくなったら、

「さよなら、ありがとう」とお礼をいい、箱の中に納めてから新しい鉛筆をおろすという子どものもってきた

「さよなら、ありがとう」と書いた蓋をとってみると、綿をしいた上に、使えなくなった短い鉛筆が、きちんと並んでいました。

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