正楽寺日誌 つれづれなるままに 正楽寺日誌 つれづれなるままに

数えきれないほどのお米の一粒々々が
いまこの茶碗の中に 私のために

 私の若い頃から、ずっと不断にお育てをいただいてきた森信三先生は、ご飯をおあがりになるにも、

ご飯とお副えものを一緒に口に入れては、食物に申しわけないとおっしゃり、ご飯をよくよく味わい、それを食道に送ってから、

お副えものを口にされ、お副えもののいのちと味を、充分お味わいになってから、ご飯を口になさると、承ってきました。

いつか、お伺いしたとき、出石の名物の餅を持参したことがありましたが、

「これほどの餅をつくるところが出石にありますか」

と、おっしゃり、何気なく口にしていたことが、はずかしくなったことがありました。

 毎日、食物をいただかない日なしに、七十七年も生きさせていただいてきた私ですが、食べものたちに対しても、ずいぶん、

申しわけない自分であることに気づかされます。食べ物をつくつた方々に対しても、ずいぶん、申しわけない「この身」であることに気づかされます。

   せめてわたしも……

 数えきれないほどのお米の一粒々々が一粒々々のかけがいのないいのちを ひっさげて 

 いま この茶碗の中に わたしのために

  怠けているわたしの胃袋に目を覚まさせるために山椒が山椒のいのちをひっさげて わたしのために

  梅干しもその横に わたしのために……

  白菜の漬物が 白菜のいのちをひっさげ万点の味をもって わたしのために……。

  もったいなさすぎる もったいなさすぎる

どことても み手のまんなか
おかげさまのどまんなか

東井先生は27歳のとき、お父さんを亡くされました。

7年間も病床にふせっておられたお父さんの様子を見るため、ある日、東井先生は豊岡から帰宅されました。

思いがけない日の、思いがけない時刻(夜半)の帰宅に、たいへん喜ばれたお父さんは、東井先生にこう言われたそうです。

「生きておれば、何の役にも立たんわしを、おまえがこうして案じてくれる。

いま、息が絶えても、大きな大きなお慈悲のどまんなか。

世界中に、ぎょうさん人間は住んでいるが、わしほどのしあわせ者が、ほかにあろうかい」

この言葉は、次第に小さくなって消えていったといいます。

63歳のご往生でした。

東井先生のお父さんは、たいへんありがたい念仏者でした。

いつも、阿弥陀さまのお救いと、阿弥陀さまのみ手のどまんなかに生かせていただいていることを、よろこばれていたそうです。

このお父さんの最後の言葉を、たまたま家に帰って思いがけなく聞かれた東井先生は、のちにこうふり返っておられます。

「若い私は、その事実を、父が『人間に生まれさせていただいた以上、<生きても、死んでも、しあわせのどまんなか>という世界に到達できなかったら、人間に生まれさせていただいたねうちはないのだよ』と教えるために、私を呼び寄せてくれたのだと思いました」

また、東井先生の晩年の著書では、お父さんのことを、このようにも味わっておられます。

「ひょっとすると、あの父は、如来さまが、私のためにお遣わしくださった、如来さまのお使いであったかも知れないと思うのです。

(中略)

いつ壊れても不思議でない体です。

『終わりの時』は目の前にあるのです。

でも、妹も申します通り、

『いつ壊れてもみ手のまんなか』です。

終わってから『み手のまんなか』に拾っていただくのなら、『ひょっとして、拾っていただけなかったら…』という不安もあるでしょうが、現在ただ今、既に『み手のまんなか』なのですから、死にざまなどかかわりなく、『いつ壊れてもみ手のどまんなか』なのです。

この安らぎの世界に目覚めさせてくれたのは父です。

父はやっぱり、まちがいなく、如来さまのお使いだったにちがいありません」

こちらが意識するしないにかかわらず、阿弥陀如来さまの、お救いのみ手のどまんなかで、生かせていただいているという、東井先生の念仏者としての深い味わいが、そこにあります。

私たちにとって、東井先生は、如来さまのお使いだったのでした。

聞くということは 吸収すること

私は長い間、教員をやってきました。

私たちは、授業の一環として、話し合いという時間を設けています。

しかし、私は九州から北海道まで、あちらこちらの授業を拝見させていただいて、

これが本当の話し合いだというのには、ほとんど出会うことができません。

言い合いなんです。

そして、言い合いだから討議になります。

討議はやっつけ合いです。

本当の話し合いというのは、じつは聞き合いなんですね。

だから今の若者たちの像を漫画で書くとすれば、文句はよく言うようになったから、

口は相当に大きい。大きいだけでなく、人をやっつけるような口ですから、

するどくとがって発達している。

目は、よろこびやしあわせが、いっこうに見えず、見えるのは不平、不満ばかりで、飛び出した目になる。

耳はどのように書けばいいかといえば、あるかないかの点ぐらい打っておけばいいのではないでしょうか。

聞くということを粗末にして、やっつけ合いを育てることが、子どもの自主性を育てることだと考え違いをしてきたようです。

私は、これが本当の聞き合いだなと思いましたのは、北海道の根室のある小学校を訪れたときでした。

ここは1900人の児童数の大きな小学校ですが、1年生の教室で子どもたちが話しているのを聞くと、

子どもの顔ってこんなにも美しいものかなと思うほど、輝いた顔で話しているその声が、私の声のようにとがっていないのです。

それはどうしてかといいますと、本当にいい顔して相手の言葉をうなずいて吸収して聞いているから、

とがった声でなく、しみ込んでくるような声になっているのです。

そして他の子どもがしゃべり出すと、みんなh身も心もそちらに向いて、うなずきながら聞いている、

これが本当の話し合い、聞き合いなんですね。

 

水はつかめませんすくうもの
心もつかめません汲みとるもの

「こころの味」といっても、すぐにはわかってもらえないかもしれませんが、次の、熊本の女子高校生の作文をご覧ください。

私が「母の日」を意識しはじめたのは、小学校四年のときでした。

一週間百円の小遣いの中から五十円出して、お母さんの大好きな板チョコをプレゼントしたのがはじまりでした。

あのときはきまりがわるくて、お母さんのエプロンのポケットに放りこむなり、にげるようにして布団にもぐりこみました。

生まれてはじめて、お母さんにプレゼントしたのでした。

あんなものでも喜んでくださるかしら、誰かが聞いたら笑うんじゃないかしら、そんな、喜びとも不安ともつかない複雑な気もちのまま、いつか私は深い眠りに落ちていきました。

翌朝、目をさますと、私の枕もとに、一枚の手紙と、板チョコの半分が銀紙につつんでおいてありました。

「ルリ子、きのうはプレゼントどうもありがとう。お母さんね、これまで、あんなおいしいチョコレート、食べたことがなかったよ。こんなおいしいもの、お母さんひとりで食べるのもったいなくてお母さんの大好きなルリ子にも、半分たべてほしくなりました。どうか、これからも、元気で、そして素直なよい子になってくださいね」

読んでいるうちに、涙がこみあげてきて、あのときほど、お母さんの子に生まれてきたことを誇りに思ったことはありませんでした。

あのときの感激は、生涯、忘れることはないでしょう。

 

このお母さんが「お母さんね、これまで、あんなおいしいチョコレート食べたことがなかったよ」といわれるチョコレートの味は、ただの「チョコレートの味」ではありません。

ルリ子さんの「こころの味」です。

このお母さんは、この「こころの味」をちゃんと受け止め、「こころの味」のすばらしさを「こんなにおいしいんだもの」と、またわが子に返してやっていてくださいます。

そして、この子も、涙をこみあげさせながら、生涯忘れることができない感激をもって、お母さんの「こころの味」を胸に刻みつけているのです。

「しあわせ」の中にいるのに
「しあわせ」が見えない

親と子、夫婦がそろって無事に一日をすごすことができ、六百の子どもの上にも、二十四の教室の上にも、建物の上にも、事がなく一日が暮れたということ、それがどんなにただごとでないことであるかを、痛感させてもらうこの頃です。

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