雨の日には 雨の日の
悲しみの日には悲しみの日の
かけがえのない
大切な 人生がある
暑さの中で
涼しさの味をしらせてもらう
寒さの中で
あたたかさのよろこびをしらせてもらう
しあわせには
小さいのはない
大きいのばっかり
ちょっとみると小さく見えるのも
ほんとうは
私にはすぎた
大きいのばっかり
悟君は、二年生の途中に転入して来た子どもでしたが、前の学校でも、登校拒否で先生方を困らせていたということでした。
私の学校に来てからも、担任が、
「われこそは、彼の登校拒否を解決してみせるぞ」
と、いろいろ手をつくしてくれましたが、「元気を出せ」「もっと元気を出せ」と、いろいろ熱心に励ましてやっても、どうにもならないまま、六年生を迎えることになってしまいました。
私は、男子ではいちばん年の若い米田先生に彼の担任を依頼しました。気の弱い一面をもった先生だったからです。
米田先生は、彼に「もっと元気を出せ」とは言いませんでした。
「悟君、実は、ぼくも気の弱い男で、ほかの人が、人の気持ちなんか考えようともせず、自分の思い通りに何事もやってのけるのを見ると、うらやましくなってしまう。ぼくらは、自分のことよりも、先ず相手の気持ちを考えてしまう。が、考えてみると、これは、悪いことではなくて、人間としていちばん大切なことではないだろうか。悟君、お互いに、ぼくらのこの気の弱さ、もっと大切にし合おうではないか」
と、呼びかけてやってくれました。米田先生の担任になってから、悟君の登校拒否はピタリとやみました。
そればかりか、いきいきと登校するようになりました。それまでの担任たちの「元気を出せ」という善意にみちた励ましも、特別感度の鋭い悟君には「そんなことではダメだぞ」と聞こえ、自信を失わせる役割しか果たしていなかったのです。
人間をしあわせにする「学力」は、人間と人間の協力と磨きあいの中で育ちます。「人間」を揺り動かし、目覚めさせ、脱皮させ、ますます人間らしい「人間」を育て上げるような「学力」を目指さなければなりません。
わたしの学校の竹箒部屋の竹箒は、今日で二百日あまり、倒れたり、傾けたり、ひっくりかえったりすることなく整列していてくれる。百三十日目くらいだったろうか、朝礼のとき、わたしは一メートルばかりの大きな温度計をもって台上に立った。
「けさの温度は何度くらいだろうか」というようなところから温度計に注目させ、毎日寒い日がつづくから、温度が低いことを話し、
「でもね、みんなの中には、誰かしらんけれど、温度計のてっぺんまで赤い棒が伸びるほど、心のあたたかい子がいるらしいんだよ。校長先生は毎晩、学校を見廻りに学校にやってくるんだけど、どんな夜半でも、竹箒がきちんと行儀よく並んでいるの。きょうで百三十日くらいだと思うんだけど、倒れていた日は一回もないんだよ。竹箒をかわいがってやってくれている心のあたたかい人は誰なの?手をあげてみてください」と言った。一人も挙手する者がなかった。
「誰かしらんけど、とっても心のあたたかい人がいてくれることが、先生はうれしくてならないんです。みんな、人を困らせたり、物をいじめたりなんかしない、心のあたたかい子になってくださいね」
と言いながら、わたしは温度計をかかえて台を降りた。
それから、少し日が経って、四年生の男の子が箒をまもるためにがんばってくれていることがわかってきた。
(注=「私は、生まれつき、いわゆる腺病質体質というのであったようで、村のおばさんたちが『お寺のぼんちゃんは、お気の毒だけど、とても三十歳まではよう生きさらんだろう』と噂していたと聞いています」と述べられているように、東井先生は子どものころから、体はあまり丈夫ではなかったようです。次の文章は、一九二七年(昭2年)、兵庫県の姫路師範学校に十五歳で入学されたときの思い出です。 入学した以上は、必ず何か運動部に入らなければならないということで、いくつかの運動部の門を叩かれたそうです)
はじめ、サッカーの入部検査を受けました。山の中の、貧しく小さな小学校で育った私には、あんなボールを蹴らせてもらうのは初めてでした。(中略)次は、野球部でした。生まれてはじめて、バットというものを握りました。なぜ、球が当たりやすいように平らにしておかないのか、こんなツルツルした丸太ン棒を、飛んでくる球に当てるなんて、まるで奇術ではないかと思いながら、バットを振りましたが、やはり、球は当たってくれませんでした。次は、庭球部でした。ラケットを握るのは初めてでしたが、これは、球が当たるようにうまくできていると、感心しながら振りましたが、見事に空振りで、はねられてしまいました。次は、水泳部でした。プールの波が光っているのを見ると、おそろしくなって、尻込みしている私を、水泳部の上級生が、無理やりプールに突き落としました。カナヅチが浮く道理がありません。溺れてしまった私を、上級生が大あわてにあわてて引き上げてくれました。次は、競走部でした。これは溺れるはずがありませんから、少し、安心しました。百メートル走らされましたが、ビリでした。「チョボイチご飯」を食べて育った栄養失調の私には、人並みに走れるだけのエネルギーもなかったのでしょう。
「おまえ、なーんにもあかんのやな」と、上級生たちが、あきれ顔で申しました。
その私を、気の毒そうに見ていた上級生の一人が、「おまえ、辛抱強く粘ることはできるかい」と、尋ねてくれました。「はい、粘ることならできると思います」と、答えましたら、「そうか、それではマラソン部にとってやる」といってくれました。 やっと、私の落ちつくところが決まったのでした。「よし、粘り抜いてやろう!」と、一大決心をして、入部させてもらいました。
放課後、他の部員たちと一緒に、姫路の城北練兵場をとり囲む道を一周して帰るのが、毎日の日課でした。マラソンも、ただ粘ればよいというものではなく、毎日、私が、ビリッコを独占することになりました。練兵場一周は五千メートルということでしたが、週一日は、市川の鉄橋まで往復、というのがありました。これは、一万メー トルだということでした。この一万メートルコースの途中に、キリスト教の女学校がありました。大勢の女学生たちが見ている前を、仲間から何百メートルもおくれて、犬に吠えられながら走るのは、鈍感な私にも、ほんとうに、つらいことでした。
(中略)ビリッコを走りながら、毎日、考えたことは「兎と亀」の話でした。あの話では、亀は兎に勝ちました。けれども、兎が亀をバカにして、途中で一眠りしたりするものだから、たまたま、亀が勝ったにすぎません。いくら努力しても、亀は、どこまでいっても亀で、走力は、とても兎には及びません。ですから、あの話は、ねうちのある亀は、つまらない兎よりは、ねうちの上では上だ、という話ではないかと考えました。亀は、いくら努力しても、絶対、兎にはなれない。しかし、日本一の亀にはなれる。そして、日本一の亀は、つまらない兎よりも、ねうちが上だという話ではないかと考えました。そして、私も「日本一のビリッコ」にはなれるのではないか、と、考えるようになりました。
「よし、日本一のビリッコになってやろう」と、考えることで、少し勇気のようなものが湧いてくるのを感じました。
そのうちに、また、気がつきました。 「もし、ぼくがビリッコを独占しなかったら、部員の誰かが、このみじめな思いを味わわなければならない。他の部員が、このみじめな思いを味わうことなく済んでいるのは、ぼくが、ビリッコを独占しているおかげだ」ということに気がついたのです。「ぼくも、みんなの役に立っている」という発見は、私にとって、大きなよろこびとなりました。世の中が、にわかに、バッと明るくなった気がしました。そして「教員になったら、ビリッコの子どもの心を解ってやれる教員になろう。とび箱のとべない子、泳げない子、勉強の解らない子どもの悲しみを解ってやれる教員になろう。『できないのは、努力が足りないからだ』などと、子どもを責める教員にはなるまい」と思わずにはおれなくなりました。
神戸のある学校のPTAの講演で、私が、お父さんは、子どもにお母さんの存在の輝きを、お母さんは、お父さんの輝きを子どもに届ける工夫をしていただきたいという願いを訴えたことがありました。講演会が終わって会場を出、控室に帰ろうとしたとき、追っかけて来られたお母さんがおられました。「先生は、残酷なことをおっしゃる。私の家には、子どもに届けてやるお父さんがいないのです。亡くしてしまったのです」と抗議を受けました。私は、このお母さんを悲しませたことをおわびするとともに、亮太君という男の子の作文を聞いていただき、「どうかお父さんを生かしてあげてください」と、お願いしました。
小四 亮太
ぼくのおとうさんは、ぼくの小さいときに死にました。それでも「とうちゃんは、どこかでぼくのすることを見とるんや」と、かあちゃんはいいます。
かあちゃんは、いつも働いているので、家へ帰るのがおそくなります。とうちゃんのぶんも働くからです。
ぼくが、夕方、戸口のところでまっていると、帰ってきて、頭をなでてくれます。 ぼくはうれしくなって「とうちゃんのぶんもなでて」といいます。すると、かあちゃんは「よし、よし」といってなでてくれます。
この間のばん、ぼくがしゅくだいをやっていると、かあちゃんが「亮太は勉強がすきになったでええな」といいました。「ちがう、きらいや」というと、「勉強のきらいなもんはえらい人になれません」と、かあちゃんがいいました。 「へえ、そんなら、おらの組では、健ちゃんがいちばん、えらいもんになるんかよ。なら、おら、えらいもんなんか、なりたかねえ」と口答えをしました。
健ちゃんは、勉強はできるかもしんないが、 いばるから、ぼくはきらいです。すると、かあちゃんが、ブスッとしてしまいました。
ぼくはだまっていましたが、かあちゃんがものをいわないので、だんだん、つらくなりました。
ぼくは、かあちゃんのところへいって「かあちゃん、たたいて」と、頭をだしました。すると、かあちゃんは「もう、ええから、勉強しな」といいました。「そんなら、とうちゃんのぶん、たたいて」といいました。そしたら「よし」といって、かあちゃんは、わらいながら、ぼくの頭を、一つ、コツンとたたきました。ぼくは、うれしくなって、また勉強をやりました。ぼくはかあちゃんが大すきです。
亮太君の中に、お母さんは、みごとに、お父さんを生かしていらっしゃいます。



