正楽寺日誌 つれづれなるままに 正楽寺日誌 つれづれなるままに

こころを育てる畑を
荒らさないように

 小学四年の女の子が、二年の女の子を屋上から突きおとして殺しました。

小学一年の男の子が、幼い女の子にいたずらしようとしたらお母さんに告げるといわれ、

女の子を井戸に突きおとして殺しました。小学六年の男の子がいつも優しくしてもらっている

近所のお婆さんの店のお金を盗もうとしたのを見つけられ、お婆さんをしめ殺してしまいました。

子どもは人を殺しても罪にならないといって、お母さんを刺した中学生が現れました。

人間の心を育てられ損った子どもが、どんどんふえてきているようです。

これは、心を育てる畑が荒れてきているということではないでしょうか。

心を育てる畑の中で、一番大切な畑は家庭です。その家庭が、いま、心を育てる働き

を喪いつつあるということではないでしょうか。

 家庭は、みんなが疲れて帰ってくるところです。きれいごとのできるところではありません。

でも、疲れをわかりあい、いたわりあい、僅かな喜びもみんなでわけあって大きい喜びにし、

明日への活力に変えていく、それが家庭というところであり、そういう家庭のあり方の中で、

子どもたちも、人間の心をそだてられていくのでしょう。

 亮太君は、母一人子一人の貧しい家庭の子どもです。日が暮れてからでないと、

お母さんは仕事から帰ってきません。そのお母さんが、いつも亮太君におっしゃっていることは、

いつでもとうちゃんが亮太君を見ておられるということです。ですから、

亮太君もそれを信じる子に育てられています。

 亮太君は、いつも、疲れて帰ってくるお母さんを、戸口のところへいって待っています。

お母さんは、帰ってこられると、その亮太君の頭をなでてくださいます。亮太君は、

「とうちゃんのぶんもなでて」とねだります。お母さんは「よし、よし」といってなでてくださいます。

亮太君のさびしかった心はふっとんでいってしまい、しあわせの思いがいっぱいになります。

 でもあるとき、亮太君は勉強のことでお母さんに口答えをしました。お母さんは、

悲しそうな顔をして黙ってしまわれました。その時のことを亮太君は「ぼくは、かあちゃんが

ものをいわないので、だんだんつらくなりました。ぼくは、かあちゃんのところへいって

『かあちゃん、たたいて』と頭をだしました。するとかあちゃんは『もうええから勉強しな』

といいました。『そんならとうちゃんのぶんたたいて』といいました。そしたら『よし』といって、

かあちゃんはわらいながら、ぼくの頭を一つコツンとたたきました。

ぼくはうれしくなって、また勉強をやりました。ぼくはかあちゃんが大すきです」と書いていました。

 貧しく、そしてさびしい亮太君の家庭ですが、亡くなられたお父さんまでちゃんと活かされ、

「心を育てる」立派な家庭になってくださっています。亮太君は、絶対、まちがいのない人間に育ってくれるでしょう。

願われていた私
赦してもらって生きていた私

 当時、私は高等二年の男子を担任していました。三学期の終りでした。理科の時間だったと思います。

「これで、高等科の理科の勉強はすべて終ったわけだが、何か質問は残っていないかい」

といったとき、ぱっと挙手したのは北村彰男という子どもでした。母一人子一人の貧しい家の子どもで、

小学校三年の時から、毎朝三時半に起きて、豊岡の町を新聞配達して廻り、帰って勉強し、それから朝食をすませて学校にやってくる子どもでした。

私が指名しますと、

「先生、あああと口をあけると、のどの奥の方にベロンと下ったぶさいくな肉片が見えてきます。あれは、一体、どういう役目をしている道具でしょうか」

というのです。

「北村君、すまんが、先生はあれの役目を知らんわい。きょう帰って調べてみるからな、明日まで答えを待ってみてくれんかい」

という以外ありませんでした。はずかしいことですが、私は教師のくせに、あののどの奥のベロベロしたものの役目を知らなかったのです。

 下宿へ帰るなり、人体に関するあらゆる書物を引っ張り出して調べてみてやっとわかったのです。ものを飲み込む時、

のどの奥のところで、気管の道と食堂の道が岐れているわけですが、口からはいっていった食べ物が気管の方へいってしまったら

たいへんです。窒息してしまいます。それをそうさせないために、たべものをのみ込むときには、あのベロベロしたものが、

気管への入口を蓋してくれるわけです。そのおかげで、食物がまちがいなく胃袋の方へはいっていってくれるわけです。

 それがわかったとき、私は、頭の上がらない思いにさせられました。だって、あのベロベロの役目を知らないくらいですから、

一度だってお礼を言ったことはありません。すまんなあと思ったことだってありません。すまんと思わないどころか、

「わしが生きていてやるのだ」というような驕慢さで生きていた私だったのです。そういう私のために、生まれて母親の乳を呑み

はじめたそのときから、働き通しに働いていてくれたのが、のどの奥のあのベロベロだったのです。

「してあげる世界」から
「させていただく世界」へ

 私が、ずっと以前から「お念仏の師」としてひそかに敬仰させていただいてきた先生に雑賀正晃先生があります。

その雑賀正晃先生のご著書に『光りを生きる』(百華苑)というのがあります。その中に、まことにありがたいお話がでてまいります。

 先生が、どこかのお寺のご法話におでかけになり、夜のご法話を終られて控室にお帰りになりましたのを、一人の奥さんがお訪ねになりました。

 その奥さんというのが、結婚して二年たたぬ中におじいさんが中風でたおれて全身不随、それからまたおばあさんがたおれて全身不随、

それからまた間もなくご主人がよその屋根から転落して下半身不随……(そのお家はお父さんは戦死、お母さんは再婚ということで四人暮らし)ということで、

結婚して五年もたたないのに三人のシモの世話までしなければならなくなられたのです。農家ですから田の仕事もあります。

 村の人が気の毒がって「あんたはこの家に病人の世話をしに来たようなものだ。さいわいまだ子どもさんがないんだから実家へ帰ら

せてもらいなさい。せっかくの女の一生を棒にふってしまう」

 といわれると、そうさせてもらいたい気もするのですが、だからといって三人の病人を見捨てて帰ることもできかね、毎日毎日心が

迷って定まりません。わたしはいったいどうしたらいいのでしょうかーという相談のためだったのです。

(※そのとき雑賀先生は、相談に訪れた奥さんに、「どちらでもなさい。ただし、ここではっきりしておかねばならないのは、この世は

あくまで因果の道理で動いているということです」と答え、さらに「その三人は病を患う“因”があり、その三人の面倒をみなければ

ならない“因”が奥さんにもあったということなのです」と。その話を聞いた奥さんは)

「先生、おはずかしいことでした。己れの播いた種が己れに生える。そうでした。これだけお聞かせいただいておきながら、

さてわが身に火の粉がふりかかってくると、その大事なことをすっかり忘れてしまって、何で私だけがこんなつらい目にあわ

なければならぬかと思ったりしまして……。先生、受けていきまいきます。どこまでも、私の業を果たさせていただきます」

「奥さん、ありがとう。よういうて下さった。私のような者でも、こんなに涙がこぼれるのに、如来さまや親鸞さまがどんなに

よろこんで下さるでしょう。さあ、夜もずいぶん更けたからお帰りなさい。ただ、最後にもう一つ申しておきたいことがあります。

重い重い業を背負って、泣きながら帰っていかれる奥さんですが、あなたがひとりで泣いているのではないのだということです。

その苦しみを代ってやれるものなら代ってやりたい。しかし、業報の世界はひとりひとりの世界なのです。

代わってやれるのなら、如来さまには苦もなければ大悲(大いなるいつくしみの心)もないのです。

代ってやることができないから泣かずにおれない。それが如来さまの大悲なのです。

あなたがひとりで泣いているのではない、いっしょに泣いていてくださる方があるのです。どんなにかつらいでしょう。

悲しいでしょう。でも、この大悲とともにがんばろうね」

ということで別れられたのです。先生の教えによって、この奥さんは、「してあげるのではなくて、させていただくのだ」

ということを了解されたのです。他人の荷物を背負ってあげるのではなく、己れの荷物を己れが背負わせていただくのだと受けとめられたのです。

山の中にいると山が見えない
汚れの中にいると汚れが見えない

 お医者さんの薬だけが薬だと思っていたら

 ちがった

 一日中の天敵がやっと終り

 後の始末をしにきてくれたかわいい看護婦さんが

 「ご苦労さまでした」

 といってくれた

 沈んでいる心に

 灯がともったようにうれしかった

 どんな高価な薬にも優った

 いのち全体を甦らせる薬だと思った

 そう気がついてみたら

 青い空も

 月も

 星も

 花も

 秋風も

 しごとも 

 みんな みんな

 人間のいのちを養う

 仏さまのお恵みの

 薬だったんだなと

 気がつかせてもらった

 山の中にいると山が見えない

 汚れの中にいると汚れが見えない

私の体の中にも「ありがとう」と
お念仏の灯がともってくださる

 もう、何年くらい前になるでしょうか。毎日新聞社会部がまとめた『幸福ってなん

だろう』(エール出版刊)という本が出版されました。その本の「はしがき」に書か

れた文章を、私は今も忘れることができません。ご縁のある多くの皆さんにたびたび

ご紹介しているうちに、いつの間にか、私は、その文章を暗記してしまいました。

ご紹介しましょう。

 昨年十二月。私の最愛の人が四十八年の生涯を終って、永遠の眠りについた。乳ガ

ン手術後の転移ガンである。その年の三月から脊椎が侵されて下半身がマヒし、大阪

の自宅で寝たきりであった。医者は「あと半年のいのち」と宣告した。そのころ私は

勤務地の福岡にいた。大阪と福岡。離ればなれのふたりは、毎晩、短い電話をかけあっ

た。彼女の枕元の電話機が「夫婦の心」を知っていよう。彼女は、自分の病気が何で

あるかをうすうす悟っていた。

 死ぬ一ヶ月前。真夜中に電話をかけてきた。いつもの澄んだ声である。

「おきていらっしゃる?」「うん」「夜中に電話をかけてごめんなさい。私眠れなかっ

たの」「痛むか」「痛むの。でも……」しばらく声がとぎれた。「私の一生は、ほんと

うに幸福な一生でしたワ」

泣いているようである。受話器を持つ私の手はふるえた。妻よ。感謝すべきは、こ

の私ではなかったか。二十三年間、ずいぶんと苦労もかけたのに、彼女は私と子ども

たちのために、よくつくしてくれた。明るい家庭の太陽であったのに。

ーという文章です。

 奥さんには、ご自分の病気が何であるかわかっていらっしゃるのです。末期癌の痛

みの中で、いよいよ、自分の最期の日が近づいていることを、お感じになっているの

です。

 如来さまは、きっと奥さんのその絶望的なお心の中におはいりになって、絶望の淵

から、奥さんを引き戻そうとなさって、光を放って、ご主人の大きな愛情に包まれて

歩まれた、今までの人生の輝きを、お見せになったのでしょう。今までの人生の輝き

をご覧になると、奥さんは、その感動をひとり占めしておくことがおできにならず、

真夜中、電話で、その感動をお伝えになったのでしょう。それをご縁に、「妻よ、感

謝すべきは、この私ではなかったか」と、この奥さんに支えられてきた人生の輝きに、

感動のあまり、受話器をおもちになる手がふるえたのでしょう。

 このご夫婦が、仏法にご縁のある方であったかどうか、私にはわかりません。でも、

そんなことにかかわりなく、如来さまは「一切衆生」のためにはたらきつづけて、お

念仏の灯をともしてくださるのです。

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