正楽寺日誌 つれづれなるままに 正楽寺日誌 つれづれなるままに

二度とない人生
二度とない今日 ただ今

 私が、東京に講演に出かけた朝でした。

 新聞に、T大学経済学部三回生の学生が、テレビがうるさい、子どもがうるさいと、

下宿のご主人をはじめ、近所の奥さん方五人を刺殺した事件が報道されていました。

T大学の経済学部の学生というのですから、頭脳は相当優秀なのでしょうに、

まったく残念なことをしてしまったものです。

 人生を仮に八十年と考えて、これを、一日二十四時間にあてはめてみますと、

四十歳が正午、その半分の二十歳は午前六時ということになります。

 この学生は、午前六時を少し過ぎたあたりを生きているのです。ほんとうの人生は、

これから始まるのです。就職、結婚等々、大切なことが、これから次々にやってくるのですが、

その度に妨げになるのがこの事件でしょう。

 これは、両親といえども、代わって背負うことはできません。この学生が、生涯、背負い続けねばならないのです。

この学生は、自分で、自分のただ一度の人生を台なしにしてしまったのです。これでは、いくら頭脳が優秀でも賢いとは申せません。

 仏教では、こういうのを「痴(おろか)」と申します。「知」が病んでしまっているのです。

いま、日本のお母さん方は、子どもを賢い子にしたいと、一生懸命になっていてくださいます。

ありがたいことではあるのですが、どうかどうか、「痴」につながるようなおろかな賢さだけば、

育てないようにお願いしたいものです。

 さて、この学生は、テレビや子どもの騒音に腹を立てたのですが、この怒り、腹立ちのことを、

仏教では「瞋(いかり)」と申します。

この学生は、この「瞋」を制御する力を育てられていなかったために、まったく取り返しのつかない罪を犯してしまったのです。

 人間の心の中には「自分の都合がよいように気ままに生きタイ」「らくがしタイ」「おいしいものを食べタイ」

「もっと寝ておりタイ」「遊んで暮らしタイ」というような「タイ」が無数に住んでいます。

 「タイ」の中には「もっと賢くなりタイ」「健康になりタイ」「強い心を持ちタイ」「優しくなりタイ」というような、

値うちのある「タイ」もあるのですが、これは、よほど努力しないと成長してくれません。

 ところが、はじめに申しましたような「タイ」は、放っておいても、知らぬ間に大きくなり、

肝心の主人公の人生まで台なしにしてしまいます。

 この「タイ」のことを、仏教では「貪(むさぼり)」と申します。先述の学生は「他人にじゃまされないように生きタイ」

という自分中心の「タイ」が、それを妨げるものへの「瞋」と結びついて「じゃまする者たちをやっつけてやりタイ」

となり、取り返しのつかない「おろかさ(痴)」を発揮してしまったのです。

「あたりまえ」をみんな
なぜ喜ばないのでしょう

 隣の町のお寺の門前の掲示板に、

 「目をあけて眠っている人の目を覚ますのは、なかなかむずかしい」

と書いてありました。

 「目をあけて眠っている人」

というのは私のことではないかと思うのといっしょに、悪性腫瘍のため亡くなられた

若き医師、井村和清先生が、飛鳥ちゃんというお子さんと、まだ奥さまのお腹の

中にいらっしゃるお子さんのために書き遺された『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』(祥伝社刊)

というご本のことを思い出しました。

 その中に「あたりまえ」という、井村先生が亡くなられる二十日前に書かれた詩があります。

 

 あたりまえ

  あたりまえ

  こんなすばらしことを、みんなはなぜよろこばないのでしょう

  あたりまえであることを

  お父さんがいる

  お母さんがいる

  手が二本あって、足が二本ある

  行きたいところへ自分で歩いてゆける

  手をのばせばなんでもとれる

  音がきこえて声がでる

  こんなしあわせはあるでしょうか

  しかし、だれもそれをよろこばない

  あたりまえだ、と笑ってすます

  食事がたべられる

  夜になるとちゃんと眠れ、そしてまた朝がくる

  空気を胸いっぱいすえる

  笑える、泣ける、叫ぶこともできる

  走りまわれる

  みんなあたりまえのこと

  こんなすばらしいことを、みんなは決してよろこばない

  そのありがたさを知っているのは、それを失くした人たちだけ

  なぜでしょう あたりまえ

 

 お寺の前で、私は、井村先生の詩と共に、今は亡き塩尻公明先生のおことばを

思い出しました。

「人間は、無くてもがまんできることの中に幸せを追い求め、それがなくては

しあわせなど成り立ちようのない大切なことを粗末に考えているようだ。例えば、

子どもが優等生で、有名中学に入学するというようなことの中にしあわせを追い求め

るあまり、子どもが健康でいてくれるというような、それなしにはしあわせなど成り

立ちようのない大切なことを、粗末に考えているのではないか」

 という意味のおことばでした。

 「それなくしては、しあわせなど成り立ちようのない大切なこと」「あたりまえ」

のすばらしさの見えない人、そういう人を「目をあけて眠っている人」というのだ

と思いました。

寒さの中であたたかさの
よろこびを知らせてもらう

 雨の日には 雨の日の

 悲しみの日には 悲しみの日の 

 かけがえのない大切な 人生がある

 暑さの中で

 涼しさの味をしらせてもらう

 寒さの中で

 あたたかさのよろこびをしらせてもらう

 しあわせには 

 小さいのはない 

 大きいのばっかり

 ちょっとみると小さく見えるのも ほんとうは私にはすぎた

 大きいのばっかり

 

おかげさまのいのち
おかげさまの新年

 私は、今、長女が三歳の秋、お医者さまから「お気の毒ですが、この病気は百人

中九十九人は助からぬといわれているものです。もう今夜一晩よう請け合いません」

といわれた晩のことを思い出しております。

 脈を握っていると脈がわからなくなってしまいます。いよいよ別れのときかと思

っていると、ピクピクッと動いてくれます。やれやれと思う間もなく脈が消えてい

きます。体中から血の引いていく思いで、幼い子どもの脈を握りしめていると、か

すかに脈が戻ってくれるのです。このようにして、夜半十二時をしらせる柱時計の

音を聞いた感激。「ああ、とうとうきょう一日、親と子が共に生きさせていただく

ことができた。でも、今から始まる新しいきょうは?」と思ったあの思い。「ああ、

きょうも親子で生きさせていただくことができた」「ああ、きょうも共に生きさせ

ていただけた」というよろこびを重ねて、とうとう新しい年を迎えさせていただく

ことができた日の感激。

 その後、男の子二人を恵んでいただき、それぞれが揃って大きくなってくれたの

ですが、日を暮らして勤めから帰ってきますと、百人に一人の命をいただいた娘が

「お父ちゃんお帰り」と叫んで、前から私の首たまにとびついてきます。長男が同

じょうに叫んで後から首たまにとびついてぶらさがります。末っ子はぶらさがると

ころがありません。「モォーッ」と牛の鳴きまねをしながら、四つんばいになって

私の股くぐりをします。「何がまちがっても、絶対まちがいなくやってくることは、

このかわいい者たちと別れなければならない日がくるということだ。それだのに、

いま、こうして親と子が共にたわむれることができるこのただごとでないしあわせ

を、しあわせと受けとらずに、一体、これ以上のどんなしあわせがあるものか」と、

私自身に言い聞かせずにおれなくしていただいた私です。

 落せば、今すぐにでも壊れてしまう茶碗が壊れずに今ここにある、そう気づかせ

ていただくと、茶碗のいのちが輝いて拝めます。私たち親子のいのちも、プラスチ

ックのいのちではないのです。だからこそ、無倦の大悲がかけられているのです。

 大悲の中のいのち、今年も、しっかり、しっかり生きさせていただきましょう。

「目をあけて眠っている人」
私も、その一人でした

 中学校の校長を勤めさせていただいていたときでした。あちらこちらでがんばっている卒業生たちが

お正月休みに帰ってきて、学校を会場に同級会をしました。はじめに、自分は今、どんなことを考えながら、

どういうことをがんばっているかという自己紹介をしたのです。

 そのときの一人の青年のことばには、みんな感動してしまいました。その青年は申しました。

「ぼくは、中学在学中は、皆さんもご存じのとおり、勉強はできず、わからないことがあっても、

質問もできないだめな生徒でした。勉強ができないから進学はできません。

個人商店に就職したのですが、その店に、ぼくと同年の娘さんがいるのです。

その娘さんが『この靴、磨いといて』と靴磨きをいいつけます。

靴くらいは磨きますが、シャツやズロースの洗濯をさせられたときには、男に生まれて、

同年の娘さんのこんなものまで洗濯しなければならぬかと思うと、無念で、無念で、涙があふれて仕方がありませんでした。

そのとき、涙でかすんだ瞼の向こうに見えてきたのは、但馬の山奥で、貧乏な百姓をやっている両親の姿でした。

それが見えてきたとたん『これくらいのことでくじけてなるか、ズロースだろうが何だろうが洗わせてくれ、

くじけんぞ』という思いがこみあげてきて、ほほえみをとり戻すことができました。皆さん、ぼくの十年先を見ていてください」

というのです。みんなみんな、涙なしには聞くことができませんでした。

 さて、人間というものは、この青年のように、「ぼくの十年先をみていてください」

ということにならないと、光を放つことはできないのではないでしょうか。

 だめな人間というのは、素質の悪い人間ということではなく、スイッチのはいらない人間ということではないでしょうか。

私は、このように考えて、子どもたちに、いつも、次のように呼びかけてきました。

 

 心のスイッチ

人間の目は ふしぎな目

見ようという心がないと

見ていても 見えない

人間の耳は 不思議な耳

聞こうという心がないと

聞いていても 聞こえない

頭だってそうだ

心が眠っていると頭の働きをしてくれない

まるで 電灯のスイッチみたいだ

仕組みはどんなに立派でも

スイッチを入れなければ

光は放てない

 

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