正楽寺日誌 つれづれなるままに

阿弥陀さまのほほえみは
お母さんのほほえみ

暁烏敏先生のお歌に「十億の人に十億の母あらむも我が母にまさる母ありなむや」というのがあります。  世界には、たくさんのお母さんがあります。世界一美しいお母さん、世界一賢いお母さん等々、立派なお母さんが、いっぱいいらっしゃいます。  その中で、自分のお母さんは、美しさの点でも、賢さの点でも、立派とはいえないかもしれません。しかし、「私」を愛し、「私」のしあわせを願うことにおいては、どんな立派なお母さんも及ぶものではありません。「私」に関する限り、世界でただ一人の世界一の、お母さんです。  ですから、世界中のすべての人が見捨てても、お母さんだけはわが子を見捨てません。お母さんは、仏さまのご名代ですから、どんな困った子でも、愚かな子でも、見捨てることができないのです。  福岡の少年院にお勤めの先生から、少年たちの歌をいただきました。その中に、   ふるさとの 夢みんとして 枕べに   母よりのふみ 積み上げてねる というのがあります。世の中のみんなから困られ、嫌われて、ついに少年院のお世話になっているのが、この少年でしょう。  そのわが子のために、お母さんは「積み上げる」ほどたくさん、母心を手紙にして、この少年に注いでおいでなのです。そのやるせない母心にであうと、この少年も、手紙を粗末にすることはできません。大切な宝にしているのです。そして、それを枕元に積み上げれ、お母さんの心を憶念しながら眠るのです。   われのみに わかるつたなき 母の文字   友寝たれば しみじみと読む というのがあります。自分にしか読めない下手なお母さんの字がはずかしいから、友だちが寝てから読むのでしょうか。  そんなことではありません。下手くそな文字いっぱいにあふれているお母さんの心に、誰にも邪魔されずに対面したいのです。その心が「しみじみと読む」ということばの中に、あふれているではありませんか。  子どもにとって無くてはならないお母さんというのは、美貌であってくださることよりも、髙い教養を身につけていてくださることよりも、何よりもかよりも大切なことは、仏さまのお心を心として生きてくださるお母さんということになります。  そして、そういうお母さんでないと、美しさも、教養も、子どものための光とはなってくださらないといえましょう。  私の母は、私が小学一年生になったばかりの五月に亡くなってしまいました。あれから六十年もたってしまったのですが、目をとじると、今も母の美しい微笑が浮かんできます。父が不在のときはいつも母が仏前に座してお勤めをしました。私はその母にくっついて坐わり、母の口まねをして、一生懸命無茶苦茶のお正信偈をよむのでしたが、そのとき見上げるうれしそうな輝くような母のほほえみ、それが今も私の中に生きているのです。  私は、青年時代、仏さまを疑い、逆き、謗るような思想のとりこになったことがありました。ところが、そういう私をも生かしづめに生かしていてくださる大きな慈光に頭があがらなくなって仏前に額づいてしまいました。そして、頭をあげたとき、阿弥陀さまのお口もとに母のほほえみを拝んだ気がしたのを忘れることができません。私にその日がくるのを母はきっと待ってくれていたのでしょうか。

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