正楽寺日誌 つれづれなるままに

「自分の家」
ほんとうは「ただごとでないところ」

忘れることができないのは、文部大臣から「教育功労賞」をいただくことになって上京するときのことでした。山陰線から東海道線を通って上京する寝台特急「出雲号」というのに乗ったのですが、私は、三段寝台の一番上段ということになりました。ところが、向こう側の一番上に寝ているおじいさんの、何とも形容し難い高さのものすごいいびきが気になって、どうしてみても眠れません。指で両耳を塞いでも聞こえてくるのです。一から順番に数を数えることに精神の集中をはかろうとしてみるのですが、何十遍、それを繰り返してみても、いびきに掻き乱されて失敗してしまいます。一時を過ぎても、二時を過ぎても、同じことです。  ところが、ハッと気がつきました。  「僅かな寝台料金を払っただけで、寝たまま上京して賞状を受ける、賞状を受けるだけの値打もない者が賞状を受け、新宮殿で天皇さまのお言葉をいただく、考えてみれば、ぜいたく過ぎるではないか。しかも、こんな私を、機関士さんは、まんじりともせず、闇の前方を見つめ、信号を見誤らないように運転していてくれる、ぜいたく過ぎるではないか」  そう気がついたら、横着でぜいたくな私が、はずかしくなってしまいました。そう気がついたとたん、眠ってしまったらしく、気がついてみたら、カーテンの隙間から、朝の光が射し込んでいました。  「自分の家でもないのに」と申しましたが、「自分の家」であっても、何も彼も忘れて、安心して「眠らせてもらえる」「自分の家」も、ほんとうは「ただごとでないところ」であるのではないでしょうか。

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