(注=「無量寿」とは、はかり知れない (無量)「いのち」(寿)という意味です。 この無量の「いのち」をお持ちの仏さまが、阿弥陀如来です。 東井先生は、ある小学生の質問にこたえるため、夜半すぎまで調べものをされます。そのとき、ふと次のように気付かれたのでした)
「目」があって見ることができることも、「耳」があって聞くことができることも、「呼吸」や「心臓」が昼夜無休ではたらき続けていることも、「手」や「足」が、それぞれ自由にはたらいてくれることも、食べたものが「血」となり「肉」になり「骨」 になり、はたらきの「エネルギー」になってはたらいてくれることも、みんなみんな、ただごとでない、不思議きわまることであったのです。「生きている」とばかり思っていた私が「生かされている」のです。頭の上がらぬ思いでした。
いつも、バカにしながら読んでいた『正信偈』の「凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味」(凡・聖・逆・謗、斉しく廻入すること、衆水の海に入って、一味なるが如し) という言葉が思い出されてきました。「凡(ほんとうのことは、何もわかっていない愚か者の私のこと)」、「聖 (唯物論のほんのひとかけらをかじって、無神論をふりまわしたりしていた思いあがった私のこと)」、「逆(生かされていながら、生かしてくれているものに尻を向けていた私のこと)」、「謗(生かしてくれているものに逆くばかりか、それを謗る罪を、あえて犯していた私のこと)」が、わけへだてなく、「斉しく」、ちょうど、どんな荒れ狂う川の水も、汚れた川の水も、摂めとっていく海のように、必ず摂取される世界があったのです。そして、その世界のどまん中に、私は生かされていたのです。逆いているときも、謗っているときも「み手のまんなか」であったのです。
「仏さま」は、「私」の「いのちの根源」に、はたらきつづけていてくださっていたのです。



