正楽寺日誌 つれづれなるままに

春夏秋冬
いつもありがとう

私は、小さいノートを持ち歩いておりまして、よろこびが見つかると、それを書きとめておくように努めているのですが、うっかりしえちると見すごしてしまいそうな小さく見えるよろこびが、みんな、すばらしい大きいしあわせにつながっていることに気づかせていただくのです。

若い頃にはうっかりしていたことの中に、こんな大切なしあわせがあったということを驚くとともに、こういうしあわせにであわせていただけるのは、年とったおかげさまかな、ありがとうと、よろこばせていただくのです。

 

きゅうりの漬物が 満点の味をひっさげて

わたしのために

かぼちゃも 茄子も 長豆も

それぞれが それぞれの最高の味をひっさげて

わたしのために

わたしのたるんだ胃袋に 目を覚まさせるために

さんしょも 食卓に 梅ぼしもその横に

もったいなすぎる もったいなすぎる

せめて わたしも きゅうりの漬物のひときれにでもなって

どなたかの胸に よろこびの灯をともしたい

さんしょの一粒にでもなって

生きがいを失っている人に

生きがいの 目を覚まさせてあげたい

思いあがるなと

叱られてしまいそうな気もするが……

一番はもちろん尊い
しかし一番より尊いビリがある

東井先生は子どものころから、体はあまり丈夫ではなかったようです。

「私は、生まれつき、いわゆる腺病質体質というのであったようで、村のおばさんたちが『お寺のぼんちゃんは、お気の毒だけど、とても30歳までは生きなさらんだろう』と噂していたと聞いています」と述べられています。

次の文章は、1927(昭和2)年、兵庫県の姫路師範学校に15歳で入学されたときの思い出です。

入学した以上は、必ず何か運動部に入らなければならないということで、いくつかの運動部の門を叩かれたそうです。

*               *

 はじめ、サッカー部の入部検査を受けました。

山の中の、貧しく小さな小学校で育った私には、あんなボールを蹴らせてもらうのは初めてでした。

(中略)

次は、野球部でした。生まれてはじめて、バットというものを握りました。なぜ、球が当たりやすいように平らにしておかないのか、こんなツルツルした丸太ン棒を、飛んでくる球に当てるなんて、まるで奇術ではないかと思いながら、バットを振りましたが、やはり、球は当たってくれませんでした。

次は庭球部でした。ラケットを握るのも初めてでしたが、これは、球が当たるようにうまくできていると、感心しながら振りましたが、見事に空振りで、はねられてしまいました。

次は、水泳部でした。プールの波が光っているのを見ると、おそろしくなって、尻込みしている私を、水泳部の上級生が、無理やりプールに突き落としました。カナヅチが浮く道理がありません。溺れてしまった私を、上級生が大あわてにあわてて引き上げてくれました。

次は競走部でした。これは溺れるはずがありませんから、少し、安心しました。100メートル走らされましたが、ビリでした。
「チョボイチご飯」を食べて育った栄養失調の私には、人並みに走れるだけのエネルギーもなかったのでしょう。

「おまえ、なーんにもあかんのやな」と、上級生たちが、あきれ顔で申しました。

その私を、気の毒そうに見ていた上級生の1人が、「おまえ、辛抱強く粘ることはできるかい」と、尋ねてくれました。

「はい、粘ることならできると思います」と、答えましたら、

「そうか、それではマラソン部にとってやる」といってくれました。

やっと、私の落ちつくところが決まったのでした。

「よし、粘り抜いてやろう!」と、一大決心をして、入部させてもらいました。

放課後、他の部員たちと一緒に、姫路の城北練兵場をとり囲む道を一周して帰るのが、毎日の日課でした。

マラソンも、ただ粘ればよいというものではなく、毎日、私が、ビリッコを独占することになりました。

練兵場一周は五千メートルということでしたが、週1日は、市川の鉄橋まで往復、というのがありました。

これは、一万メートル だということでした。この一万メートルコースの途中に、キリスト教の女学校がありました。大勢の女学生たちが見ている前を、仲間から何百メートルもおくれて、犬に吠えられながら走るのは、鈍感な私にも、ほんとうに、つらいことでした。

(中略)

ビリッコを走りながら、毎日、考えたことは「兎と亀」の話でした。あの話では、亀は兎に勝ちました。

けれども、兎が亀をバカにして、途中で一眠りしたりするものだから、たまたま、亀が勝ったにすぎません。

いくら努力しても、亀は、どこまでいっても亀で、走力は、とても兎には及びません。

ですから、あの話は、ねうちのある亀は、つまらない兎よりは、ねうちの上では上だという話ではないかと考えました。

亀は、いくら努力しても、絶対、兎にはなれない。

しかし、日本一の亀にはなれる。

そして、日本一の亀は、つまらない兎よりも、ねうちが上だという話ではないかと考えるようになりました。

「よし、日本一のビリッコになってやろう」と、考えることで、少し勇気のようなものが湧いてくるのを感じました。

そのうちに、また、気がつきました。

「もし、ぼくがビリッコを独占しなかったら、部員の誰かが、このみじめな思いを味わわなければならない。他の部員が、このみじめな思いを味わうことなく済んでいるのは、ぼくが、ビリッコを独占しているおかげだ」ということに気がついたのです。

「ぼくも、みんなの役に立っている」という発見は、私にとって、大きなよろこびとなりました。

世の中が、にわかに、パッと明るくなった気がしました。

そして「教員になったら、ビリッコの子どもの心の解ってやれる教員になろう。とび箱のとめない子、泳げない子、勉強の解らない子どもの悲しみを解ってやれる教員になろう。『できないのは、努力が足りないからだ』などと、子どもを責める教員にはなるまい」と思わずにはおれなくなりました。

私の体の中にも「ありがとう」と
お念仏の灯がともってくださる

もう、何年くらい前になるでしょうか。

毎日新聞社会部がまとめた『幸福ってなんだろう』(エール出版刊)という本が出版されました。

その本の「はしがき」に書かれた文章を、私は今も忘れることができません。

ご縁のある多くの皆さんにたびたびご紹介しているうちに、いつの間にか、私は、その文章を暗記してしまいました。

ご紹介しましょう。

昨年十二月。私の最愛の人が四十八年の生涯を終わって、永遠の眠りについた。

乳ガン手術後の転移ガンである。

その年の三月から脊髄が侵されて下半身がマヒし、大阪の自宅で寝たきりであった。

医者は「あと半年のいのち」と宣告した。

そのころ私は勤務地の福岡にいた。

大阪と福岡。

離ればなれのふたりは、毎晩、短い電話をかけあった。

彼女の枕元の電話機が「夫婦の心」を知っていよう。

彼女は自分の病気が何であるかをうすうす悟っていた。

死ぬ一カ月前。

真夜中に電話をかけてきた。

いつもの澄んだ声である。

「おきていらっしゃる?」

「うん」

「夜中に電話をかけてごめんなさい。私眠れなかったの」

「痛むか」

「痛むの。でも…」

しばらく声がとぎれた。

「私の一生は、本当に幸福な一生でしたワ」

泣いているようである。

受話器を持つ私の手はふるえた。

妻よ。

感謝すべきは、この私ではなかったか。

二十三年間、ずいぶんと苦労もかけたのに、彼女は私と子どもたちのために、よくつくしてくれた。

明るい家庭の太陽であったのに。

ーーという文章です。

奥さんには、ご自分の病気が何であるかわかっていらっしゃるのです。

末期癌の痛みの中で、いよいよ、自分の最期の日が近づいていることを、お感じになっているのです。

如来さまは、きっと奥さんのその絶望的なお心の中におはいりになって、絶望の淵から、奥さんを引き戻そうとなさって、光を放って、ご主人の大きな愛情に包まれて歩まれた、今までの人生の輝きをお見せになったのでしょう。

今までの人生の輝きをご覧になると、奥さんは、その感動をひとり占めしておくこがおできにならず、真夜中、電話で、その感動をお伝えになったのでしょう。

それをご縁に、「妻よ、感謝すべきは、この私ではなかったか」と、この奥さんに支えられてきた人生の輝きに、感動のあまり、受話器をおもちになる手がふるえたのでしょう。

このご夫婦が、仏法にご縁のある方であったかどうか、私にはわかりません。

でも、そんなことにかかわりなく、如来さまは一切衆生のために、はたらきつづけていてくださるのでしょう。

悲しみに出会ったおかげで
今まで見えなかった世界が
見せていただけるようになった

これは、相田みつをという方の詩です。聞いてください。

なみだをこらえてかなしみにたえるとき

ぐちをいわずにくるしみにたえるとき

いいわけをしないで だまって

批判にたえるとき

怒りをおさえてじっと屈辱にたえるとき

あなたの眼のいろがふかくなり

いのちの根がふかくなる

 

悲しみ・苦しみ・怒り・屈辱にであったとき、私自身、この詩を口ずさんでいると、何だか微笑みが浮かんでくるのです。

そういうことで、もうひとつ、私がよく口ずさんで、自分を励ます詩があります。野村康次郎という方の詩です。

雨は

ウンコの上にもおちなければなりません

イヤだといっても

ダメなのです

だれも

かわってくれないのです

というのです。この詩は、私を励ましてくれるだけでなく、ひとりの問題の子どもを生まれ変わらせてくれた詩でもあります。

奈良県の小学校の先生が、私の書物の中でこの詩をご覧になり、好きになり、墨で大きく書いて額に入れて教室に掲げておられたのだそうです。

その組にN君という荒れた子がいました。荒れざるを得なかったのです。お父さんが、この子のお母さんとこのN君と、弟を追い出したのです。それでお母さんと3人で暮らしていたのですが、お母さんは交通事故で亡くなってしまわれ、弟は施設に預けられ、N君は病気のおじいさん、おばあさんのところに預けられました。おばあさんは、耳が聞こえず、口もきけない方だったそうですが心不全で入院されました。肺ガンで床に就いておられたおじいさんは、そのショックで亡くなってしまわれました。それでN君は、追い出したお父さんの家に返され面白くない日を過ごすこのになったのですが、そういう中で、ずいぶん荒れた子になってしまっていたのです。

それが、6年になって、担任してもらった先生が「ウンコ」の詩を教室に掲げておられたのです。はじめのうちは、これを見てもせせら笑ってバカにしていたそうですが、だんだん、担任の先生の人柄に心を惹かれるようになっていきました。そして、ある日の授業時間の途中、N君はハッとしたのです、「ウンコ」というのは、自分がいままで出あってきたあのイヤなことではないか。すると雨は自分ということになる。雨はウンコの上にでもまっすぐおちていっている。それだのにぼくは、次々にやってくるいやなことを憎み、やけをおこしていた。そうだ、これからは、いやなことから逃げ出そうとしたり、ブツブツいってやけをおこすのではなく、いやなこといっぱいやってこいと、こちらからぶつかっていってやろうと考えるようになったというのです。ところが、不思議なことに、あまり好きになれなかった算数までがおもしろくなってきたというのです。

受けとめ方によっては、イヤなことまで、光った存在に変わってくれるのです。ただ一度の人生を空しいものにしてしまわないために、心に刻んでおいてほしいのです。

今から始まる
新しい「きょう」1日

私は、今、長女が3歳の秋、お医者様から「お気の毒ですが、この病気は100人中99人は助からぬといわれているものです。もう今夜一晩よう請け合いません」といわれた晩のことを思い出しております。

脈を握っていると脈がわからなくなってしまいます。いよいよ別れのときかと思っていると、ピクピクッと動いてくれます。やれやれと思う間もなく脈が消えています。体中から血の引いていく思いで、幼い子どもの脈を握りしめていると、かすかに脈が戻ってくれるのです。このようにして、夜半12時を知らせる柱時計の音を聞いた感激。「ああ、とうとうきょう1日、親と子が共に生きさせていただくことができた。でも、今から始まる新しいきょうは?」と思ったあの思い。「ああ、きょうも親子で生きさせていただくことができた」「ああ、きょうも共に生きさせていただけた」というよろこびを重ねて、とうとう新しい年を迎えさせていただくことができた日の感激。

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