正楽寺日誌 つれづれなるままに 正楽寺日誌 つれづれなるままに

悲しみにたえるとき
あなたの目の色がふかくなる

 三河のあたりは、昔から仏さまの教えを大切にされてきた地方で、そのためか、

中学生など、ほんとうに立派な生徒が育てられてきており、尊く思ってきました。

 ところが、その三河で、過日、女子中学生が二人一緒に飛びおり自殺をするという

事件がおきてしまいました。きっと、死なねばならない程のつらいことがあったから

にはちがいないのですが、もしもこの生徒たちが、ほんとうに仏さまのお心をいただ

いた先生方や家族の方々の毎日の生き方にふれて育ってきてくれていたら、決して、

死を選ぶようなことはしなかったろうと思います。

 仏さまの教えは、決して甘っちょろいものではありません。『大無量寿経』に「身

自らこれにあたる。代る者あることなし」とありますように、悲しみもつらさも、自

分の荷物は自分の荷物とあきらかに見きわめ、覚悟を決めて背負わせていただき、そ

のことを通じて、仏さまの大きなおいのちに目覚めさせていただく教えです。このこ

とを、仏教詩人であられる相田みつをという方は、

  いのちの根

 なみだをこらえて

 かなしみにたえるとき

 ぐちをいわずに

 くるしみに  たえるとき

 いいわけをしないで  だまって

 批判にたえるとき

 いかりをおさえて

 屈辱にたえるとき

 あなたの目のいろがふかくなり

  いのちの根がふかくなる。

とうたっていらっしゃいます。

「明日」は「明るい日」

 下関市には、よく手紙をくれる子どもがたくさんあります。私のよく存じ上げている

先生が、私のことを度々話してくださったためだと思われます。

 その中の一人、大北さんという女の子が、小学校を卒業する前、

「もうすぐ卒業だと思うと、名残りおしくなって、ゴミを見ると拾わずにおれなく

なりますし、ゆがんでいるものを見ると、まっすぐ整頓せずにおれなくなります。

しかし、卒業の向こうに、私には、中学生としての誕生が待っていてくれるので、

うかうかしておれない気持ちになります」

というような手紙をくれました。そこで、私も、

「私も、人生の卒業を目の前にしているので、あれもしておかなければ、これも

しておかなければと、忙しい毎日を過ごしています。しかし、私にも『永遠への誕生』

が待っていてくれるので、心を新しくしてがんばらなければなりません」

というような返事を書きました。すると、すぐに、返事の返事が届きました。

 「『人生の卒業』の向こうには、もう何もないと思っておりましたのに、『永遠の誕生』

があったなんて、よいことを教えていただきました。それで、『明日』という字は『明るい日』

と書くんですね」

と、ありました。

 であったこともない小学生から、すばらしいことを教えていただきました。

「今日」がある以上、必ず「明日」がある。「今日」が、どんなにつらい日であっても、

必ず「明日」がある。「今日」がどんなに悲しい日であっても、必ず「明日」がある。

「今日」があり「明日」があるなどということは、わかりきった、あたりまえのこと

だと思って、七十七年も、ぼんやり生きてきた私ですが、必ず、まちがいなく「明日」があり、

それを「明るい日」として与えられるということは、すばらしいことなんだなと、

目覚めさせてもらいました。こんなすばらしいことを、私は、卒業前の見知らぬ小学生から

教わったのです。

 私が恵んでもらった「忘れられないことば」が、どなたかのお役に立ったら、

しあわせだと思います。

「俱会一処」
大いなるであいの世界

 「生」と「死」を超え、血のつながりの「有」「無」をも超えて、俱(とも)に一処(ひとところ)に会う

ことのできる世界(阿弥陀さまの国であるお浄土)、これを如実に教えてくれる作文があります。

 これは、ある製薬会社が、「母の日」を記念して、全国の小学生たちから「お母さん」

という題の作文を募集したときの入選作品です。

 

 二人のおかあさん 千葉県 四年 羽根井 信綱

 「きょうはおかあさんのお命日よ」

としらせてくれる今のおかあさん。おぶつだんにいつもお花をそなえてくれるのもこのおかあさん。

「おかあさん、ぼくはしあわせなの、だからおかあさんのお命日まで忘れてしまうんです。

わるいぼくですね」

といって、こんどもおわびをしたんです。

 なくなったおかあさんは、いつもぼくとねながら、「おとうさんは、いつになったら

ふくいんするのでしょう、ね、信ちゃん」

といって涙ぐんでいた。そういうおかあさんの顔がうかび、おぶつだんにむかって、

ぼくはうっかり「おかあさん」と呼んでしまった。すると、お勝手の方で「はい」と

返事がして、ぼくはあわてた。おかあさんの姿があらわれて「なあに?」といわれて

も返事ができなかった。でも、むりにわらって「何かいいものない?」というと、

「おまちなさい。おかあさんにおそなえしてからよ」

といって、草もちがおかあさんにそなえられた。そして、おぶつだんにむかって、

おかあさんは、ながいながいおまいりをしている。ときどき「信綱ちゃんが……」

「信綱ちゃんが……」と、ぼくのことをおぶつだんのおかあさんにお話ししている。

それをみているぼくの目に、涙のようなものがうかんできて、ぼくの目はかすんでしまった。

おかあさんは、そんなこと、なんにもしらないようすで、おぶつだんにお話ししている。

 ぼくは、おぶつだんの中のおかあさんと、その前でおまいりしているおかあさんを、

いろんなふうに考えてみた。おとうさんやぼくだけでなく、なくなったおかあさんにまで。

ほんとにぼくはしあわせだ。

 夕飯のとき、このことをおとうさんに話したら、「おまえがかわいいから、おかあさんは、

おまえのほんとうのおかあさんになろうとしているのだよ」

といった。ラジオがやさしい音楽をおくってくれている。テーブルにはお命日のごちそう

がならんでいる。おとうさん、おかあさん、ぼく、おぶつだんの中のおかあさん。

ほんとにぼくはしあわせだ。

「おかあさん、ながいきしてね」

といったら、そばにいたおとうさんはわらっていたけど、ぼくは、なくなったおかあさんが

生まれかわってきた、それが、今のおかあさんだと考えて、ほんとうは、おかあさんの

お命日を忘れようとしているのです。

 

というのです。これこそ「俱会一処の世界」(倶に一処で会う)ではないでしょうか。

「処」とは、ほとけさまの国、阿弥陀さまのお浄土です。

 この「大いなるであいの世界」の中にこそ人間のまことのしあわせがあるのでは

ないでしょうか。ところが、私たちはこの世界を今求めているのでしょうか。「であい」

の方向にではなく、「我」「他」「彼」「此」と互いに自己を主張しあい、責めあい、

壊しあう方向に進んで、その愚かさに目を覚まそうとしないでいるのが、今日の私たち

のあり方ではないでしょうか。

家庭はいのちの灯を
ともしあうところ

 どの家も、外から見たところ、ずいぶん立派になってきました。外見だけではあり

ません。中にはいってみても、ほんとに立派になりました。が、どこやら、ぬくもり

が欠如しているのはどういうことでしょうか。照明はすごく明るくなりましたが、心

の灯が消えてしまっているように感じられるのはどういうことでしょうか。

 お釈迦さまは、この世に存在するものの相(すがた)を、「生」まれるという

相(すがた)、「生」まれたものが、しばらく、発展的に持続する「往」の相(すがた)、

しかし、これはいつまでも、無限に持続するものではなくて、やがて「滅」の相(すがた)

に入っていく。しかし、「滅」の相(すがた)に入る前に、その予兆として「異」(異変)

の相(すがた)が現れてくると仰せられています。あの有名な歴史学者トインビーも、

これと全くおなじことを言っているわけですが、「家庭の崩壊」、少年少女たちの

おびただしい「非行」や、続発する「自殺」事件は、ひょっとすると、「滅」の予兆としての

「異」(異変)の相(すがた)であるのではないでしょうか。

 いま、私たちの国では、おとなも、子どもも、欲望や衝動の促すままに、その充足

に己を忘れてしまっているように思われてなりません。私たちひとりひとりにかけら

れている大いなるものの願いを忘れてしまっているように思われるのです。

 これを忘れては「男」は「男」でなくなり、「女」は「女」でなくなるというもの、

「おやじ」は「おやじ」でなくなり、「おふくろ」は「おふくろ」でなくなるというもの、

これを忘れては「私」が「私」でなくなるというもの、仏さまが「どうか、これ

だけは忘れてくれるなよ」と願っていてくださるもの、これを忘れては、スミレはスミレ

の花を咲かせることができなくなり、ボタンはボタンの花を咲かせることができ

なくなるというもの、存在が存在たらしめるもの、存在を決定するもの、存在の根っこ、

根源のいのち、願い、本願・・・・。これを失っては「滅」に入る以外なくなるというもの、

それを忘れてしまっている私たちではないでしょうか。

 「根」を失ってしまっては、花を咲かせることも、実を実らせることもできません。

私に、いのちの灯はともりません。

 「家庭」は、家族の者が、それぞれいのちの根を育てあう場、いのちの灯をともし

あうところ、私を私にしていただく道場。

 そのいのちの灯、生きがいの灯、私を私にしてくださる灯、それが、家庭の心の灯です。

 今こそ、家に、心の灯をかかげましょう。

このままの私こそ
仏さまのご本願のお目あてであった

 大いなるみ親の救いの目あては、この私であったのです。しかし、努めても、努めても、

「死にともない心」を、どうしても超えることができないのです。

浄土真宗のものだけでなく、他宗のものも、キリスト教のものも、「死」の問題にかかわり

のありそうな書物を見つけては、読みあさりました。「死」の問題にかかわりのありそうな

文学作品も、ずいぶん読みあさりました。でも、どんなにしてみても「死にともない心」

を超えることができないのです。

 これは、私の真剣さが足りないからだと考えました。朝は、四時起床ということにしました。

そして、起きると、冷たい水で、休中を摩擦して、体中に目を覚まさせ、それから朝の勤行、

勉強・・・・というようにして、毎日をスタートしました。そのことを、別に人に話した

覚えもないのに、同僚の一人が「近頃のあんたには、何か、鬼気のようなものを感じる」

といってくれたこともあります。でも、やっぱり、「死にともない」のです。

何年たっても、何年たってもダメでした。

 これは、「死」を、まだまだずっと先のことだと考えているためではないかと、考えました。

それで、父が亡くなった年齢である、六十三歳の十一月三十日を私の最期の日と、心に決めました。

 午前四時起床、全身の冷水摩擦、勤行、勉強・・・という毎日を、心に決めた「私の最期の日」

を目指して、何年、年を重ねたことでしょう。でも、どこまでいっても、やっぱり「死にともない」のです。

 とうとう、六十三歳になっても、十一月になっても、あせっても、あせっても、というよりは、

あせれば、あせるほど、よけい「死にともない心」が、力を増す気さえするのでした。

 そして、どうにもならないまま、十一月三十日を迎えてしまいました。どうにもならないまま、

その日が暮れ、遂に、空しくその時刻を迎えてしまいました。

 精も根もつき果てて、如来さまの前に額ずいたまま、頭が上がりませんでした。

ずいぶん、長い間、頭の上がらないまま、額ずき続けていました。

 その私に、声が聞こえてくださいました。はっきり、聞こえてくださいました。

それは、『歎異抄』第九のおことばでした。

「念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころ

の候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらん」と、親鸞聖人お尋ねした唯円房さまのお声でした。

ハッとしました。唯円房さまは、後の世に生まれてくる「死にともない私」に代って、「私」のために、

この質問をしてくださったのだと思いました。その質問に対して、親鸞聖人が、「死にともない私」をお叱りに

なるのでなく、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」と、「死にともない私」

のためにお答えくださっているのを感じました。親鸞聖人が、高いところからではなく、「私」と同じ

座までおりて、大きくうなずきながらお答えくださるのが何ともいえず、ありがたく思われました。

そして、「よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬ」「にて」

「いよいよ往生は一定とおもひたまふなり」「よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは煩悩の所為なり」

「しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、

われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり」と、答えてくださっているのです。

「われら」の中に、親鸞聖人も、唯円房さまも、「死にともない私」も、含めてくださっているのが、何と

もありがたく思われました。三人で、ご一緒に、「煩悩具足の凡夫」をお目あてに現れてくださった、

真如の月を仰がせていただいているような感動がこみあげてきました。

 「死にともない私」のままでよかったのです。「死にともない私」を「殊勝な私」にする必要はなかったのです。

「死にともない私」を「殊勝な私」にする力など、「私」にはなかったのです。そんな力が「私」にあるのだったら、

「他力の本願」などなかったのです。

 「なごりおしくおもへども、娑婆の縁尽きて」「ちからなくしてをはるときに」「かの土」へまいらせてもらうのです。

よろこび勇んでではなく、しようことなしに、「いそぎまいりたきこころなきものを」「ことに」「あはれみたまふ」

み仏のところに帰らせていただくのです。「死にざま」をとり繕う必要なんか、微塵もなかったのです。

七転八倒、「死にともない」と、わめきながら終ってもまちがいなく、摂め取っていただける世界が、既に成就されていたのです。

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