正楽寺日誌 つれづれなるままに 正楽寺日誌 つれづれなるままに

悪人正機
この私がめあて

 私が病身な父に代わって勤行していますと、内陣に住みついているらしい古ねずみ

が、お供えしてあるお仏飯をたべにくるのです。私がにらみつけてやっても、それく

らいのことに驚くねずみではありません。どなりつけるような声をはりあげてお経を

読んでも、ビクともしません。そんなねずみの所行を見ながら、ねずみにさえバカに

される阿弥陀様に何ができるかと、思わざるを得ません。

 ところが、気がついてみると、何もできない阿弥陀様を拝んで村の皆さんからお供

えをさせ、それを横どりして生活している私です。ねずみは人をだましませんが、私

は、人をだまして、お供えものを盗む仕事をしているのです。そう気がつくと、さす

がに、自分がはずかしくなります。その思いを、私は、当時の私の日記に、

「坊主、偽坊主、汝は飯を盗むか 糞坊主」と、書いたりしています。

 毎日の勤行は、親鸞聖人お作の「正信偈」と、六首の和讃を読み、その後で、蓮如

上人の『御文章』を読むことになっていました。『御文章』を読んでいましても、い

たるところで、反発ばかりを感じていました。例えば『御文章』の五帖目に、

「それ、五劫思惟の本願といふも、兆載永劫の修行といふも、ただわれら一切衆生

をあながちにたすけたまはんがための方便に……」ということばで始まる文章がある

わけですが、「五劫思惟」ということばに、反発を感じてしまいます。

 「一劫」というのは、四十里立方の城に充たした芥子粒を、三年に一粒ずつとり出

して、全部なくなってしまう時間の長さを現わすことばだそうです。また、四十里立

方の大きな石の上に、三年に一度ずつ天人が降りてきて、その軽い羽衣で石をなでる

と、石が、目に見えないくらいすりへります。そして、その石がすりへり、摩滅して

なくなってしまうまでの長い時間を「一劫」というのだそうです。その「一劫」の五

倍の長さを「五劫」というわけです。

 阿弥陀様の前身であられる「法蔵菩薩様」は、私を救うために、どうにも救う手だ

てを見つけることがおできにならず、「五劫」という長い間、ご思案なさった、とい

うのですが、私にしてみれば、「そんなデタラメがあってたまるか、どこにそんな証

拠があるか」と、思わないわけにはいきません。「そんな、おとぎ話のようなことを、

誰が信じてやるものか」と、考えてしまうわけです。そんな思いを、当時、私は日記に、

 「五劫思惟の本願といふも、兆載永劫の修行といふも……しみじみと、偽坊主の罪

探し」

と書いています。

 この「五劫思惟」については、ごく最近にも、その証拠人が、いよいよまちがいな

く「私自身」であったことを、確認させていただきました。一昨々年でした。日展の

作家であられる出石焼の永澤永信先生に、かねてからお願いしていた、私と老妻の骨

壺ができ上ってきました。それを両手でとりあげたとき、全身を電気のようにつきぬ

けた白磁の骨壺の冷たさは、思わず背すじを正させるものでした。こんな気持ちで

「老」を生きることができたら、必ず「輝く老」を生きることができると思いました。

それで、妻と相談して、私どもの居間に、二つの骨壺を置くことにしました。

 しかし、ほんとうにひきしまったくらしができたように思ったのは二日ぐらいだっ

たでしょうか。だんだん、以前と少しも変わらぬ私に戻っていきました。でも、時々、

両手で壺を支えてみると、心がひきしまりましたが、それさえも、度重なるにつれて、

だんだん、感じが薄れていきました。そして、気がついてみると、いつの間にか、ホ

コリをかぶっているようになりました。妻も、同じ思いであったのか「やっぱり、こ

れ、片づけておきましょう」というものですから、とうとう片づけてしまったのです

が、われながら、どうしようもない「私」という人間に驚かされてしまいました。救

いようのない「私」なのです。「五劫思惟」の証拠人、阿弥陀様の救いのお目当(悪

人正機)こそ、この「私」であったのです。

うるおいのある目で見なかったら
ほんとうのことは何も見えない

 既に人生の日がどっぷり暮れてしまっている私です。この私が「人生の朝に立って

いるあなた」に、何としても言い遺しておきたいことは、せっかくいただいた、ただ

一度の人生を「空しい人生」にしないようにしてくださいということです。

 七十年生きても、百年生きても、正味が空しければ、何のねうちもありません。

人生は、長く生きるかではなくて、どう生きさせてもらうかです。そう思うと、私なん

か、はずかしくてなりません。そこで、いままでの人生をふりかえり、私は、近頃、

次のように考え、自分に言い聞かせています。

 忘れていた

 忘れていた忘れていた

 牛のような 静かな 澄んだ

 うるおいのある目で物事を見るのでなかったら

 ほんとうのことはなんにも見えないということ

 ものほしげなキョロキョロした目

 おちつきのないイライラした目

 うるおいのないカサカサした目

 何かに頭を縛られた偏った目では

 しあわせのどまんなかにいても

 しあわせなんか見ることも頂くこともできないまま

 せっかくいただいた二度とない人生を

 空しく過ごしてしまうことになるのだということを

 忘れていた

小さな勇気でいいから
わたしはそれがほしい

 人生の大嵐がやってきたとき

 それがへっちゃらでのりこえられるような

 大きい勇気もほしいにはほしいが

 わたしは 小さい勇気こそほしい

 わたしのたいせつな仕事を後回しにさせ

 忘れさせようとする 小さい悪魔が

 テレビのスリルドラマや漫画に化けて

 わたしを誘惑するとき

 すぐそれがやっつけられるくらいの

 小さな勇気でいいから

 わたしは それがほしい

 明日があるじゃないか 明日やればいいじゃないか

 今夜はもう寝ろよと

 机の下からささやきかける小さい悪魔を

 すぐ やっつけてしまえるくらいの

 小さな勇気でいいから

 それが わたしは たくさんほしい

 それに そういう小さい勇気を軽べつしていては

 いざというときの大きい勇気も

 つかめないのではないだろうか

自分は自分の主人公
光いっぱいの自分にしていく責任者

 自分は自分の主人公

 世界でただ一人の自分を

 光いっぱいの自分にしていく責任者

 少々つらいことがあったからといって

 ヤケなんかおこすまい

 ヤケをおこして

 自分を自分でダメにするなんて

 こんなバカげたことってないからな

 つらくたってがんばろう

 つらさをのりこえる

 強い自分を 創っていこう

 自分は自分を創る 責任者なんだからな。

大きな大きな
しあわせのどまんなか

 父が死んだのは数え年の六十三、私が数え年二十八の年の十一月三十日でした。

その頃私は豊岡市の小学校に勤めさせてもらっていたのですが、たいへん寒い日で、

教室の窓から見える近所の家のトタン屋根には霰がはね返っていました。父の病気の中

心は神経痛でしたが、あれは天候に敏感な病気らしく、寒い日、湿度の高い日はひどく

痛むようでした。床に就いて七年、終わりの三年は寝返りも自分の力ではできない程

弱っていました。「こういう日は父の体が痛むんだが、ちょっと帰って見てこようかな」

と思うのですが、学校の仕事も気にかかります。その日は水曜日でしたが、「もう中二日

で土曜日だ、土曜日に帰って看病しよう」と考えるのですが、やはり落ちつけません。

迷っているうちに日が暮れてしまいました。日が暮れてからもまだ迷っておりましたが、

夜、十時、「やっぱり気になる。帰ってこよう」と心が決まりました。

 豊岡から家までは三十二キロちょっとあります。自転車のペダルを踏む私の顔に霰が

痛かったのが忘れられません。だんだん坂道になります。汗びっしょりで家に帰り着いた

のは、もうすぐ夜半十二時というところでした。

 父がたいへん喜んでくれまして、

「生きておれば、役にもたたんわしをこうしてお前たちが案じてくれる。いま息が絶えても、

大きな大きなしあわせのどまんなか、世界中にぎょうさん人間がいるが、わしぐらいなしあわせ

者が世界中にあろうかい」

 その声が、だんだん細くなり、淡くなり、消えていったのが父の最期でした。私は、父が眠った

と思ったのですが、義母が父の鼻に手をかざしてお念仏を称えはじめました。

もう呼吸は消えてしまっていたのでした。

 父は幼くして生母を亡くし、義母や義母が生んだ弟との間でずいぶん苦しんだようでした。

結婚しましたが、私と私の妹の二人を遺して私の母が亡くなりました。それを手はじめにし

二十年間に六つ葬式を出すありさまで病人の絶え間なく、ずいぶん貧乏をしました。

そういうことで、世間の人々の父に対する評価は低くきびしいものでした。

しかし、世間の評価なんかいいかげんなものです。私は、子どもの頃から、深い、確かな「信」

をいただいている父を尊敬しつづけていました。いつか、西元宗助先生が「東井さんにとって

『よきひと』はどうやらお父さんのようですね」と言って下さったことがありますが、

さすが西元先生だと、たいへん嬉しく思ったことでした。

6 / 23«...567...»
ページ上部へ