正楽寺日誌 つれづれなるままに

水はつかめませんすくうもの
心もつかめません汲みとるもの

「こころの味」といっても、すぐにはわかってもらえないかもしれませんが、次の、熊本の女子高校生の作文をご覧ください。

私が「母の日」を意識しはじめたのは、小学校四年のときでした。

一週間百円の小遣いの中から五十円出して、お母さんの大好きな板チョコをプレゼントしたのがはじまりでした。

あのときはきまりがわるくて、お母さんのエプロンのポケットに放りこむなり、にげるようにして布団にもぐりこみました。

生まれてはじめて、お母さんにプレゼントしたのでした。

あんなものでも喜んでくださるかしら、誰かが聞いたら笑うんじゃないかしら、そんな、喜びとも不安ともつかない複雑な気もちのまま、いつか私は深い眠りに落ちていきました。

翌朝、目をさますと、私の枕もとに、一枚の手紙と、板チョコの半分が銀紙につつんでおいてありました。

「ルリ子、きのうはプレゼントどうもありがとう。お母さんね、これまで、あんなおいしいチョコレート、食べたことがなかったよ。こんなおいしいもの、お母さんひとりで食べるのもったいなくてお母さんの大好きなルリ子にも、半分たべてほしくなりました。どうか、これからも、元気で、そして素直なよい子になってくださいね」

読んでいるうちに、涙がこみあげてきて、あのときほど、お母さんの子に生まれてきたことを誇りに思ったことはありませんでした。

あのときの感激は、生涯、忘れることはないでしょう。

 

このお母さんが「お母さんね、これまで、あんなおいしいチョコレート食べたことがなかったよ」といわれるチョコレートの味は、ただの「チョコレートの味」ではありません。

ルリ子さんの「こころの味」です。

このお母さんは、この「こころの味」をちゃんと受け止め、「こころの味」のすばらしさを「こんなにおいしいんだもの」と、またわが子に返してやっていてくださいます。

そして、この子も、涙をこみあげさせながら、生涯忘れることができない感激をもって、お母さんの「こころの味」を胸に刻みつけているのです。

「しあわせ」の中にいるのに
「しあわせ」が見えない

親と子、夫婦がそろって無事に一日をすごすことができ、六百の子どもの上にも、二十四の教室の上にも、建物の上にも、事がなく一日が暮れたということ、それがどんなにただごとでないことであるかを、痛感させてもらうこの頃です。

「よろこび」の種をまこう

私が中学校の校長を勤めさせてもらっていた頃のお正月でした。

例年のように「おめでとうございます」の会を開きました。

そのとき、私は、

「大黒さまは、いつ見ても背中に大きな袋をかついでいらっしゃる。

そして、いつ見てもニコニコしていらっしゃる。

生徒の皆さん、あの袋の中には、いったい、何がはいっているのだろうか。

いつもニコニコしていらっしゃるところをみると、だいぶ、いいものがはいっているにちがいないのだが、何がはいっているのだろうか?」

と、質問しました。

一斉に手があがりました。

一人の生徒を指名しますと、

「きっと、お金がたくさんはいっているのだと思います。

だからあんなにうれしそうな顔をしていらっしゃるのだと思います」

「ほかの考えの人はいませんか?」

と、尋ねてみましたが、一人も手をあげる生徒はいませんでした。

みんな、一人残らず、お金がはいっていると信じているようでした。

「そうかもしれないね。あんな大きな袋にお金を入れたらずいぶんたくさんはいだろうな。

だからあんなにふれしそうな顔をしていらっしゃるのかもしれないね。

だけど、ずいぶん重いだろうな。

かついだときは嬉しかったろうが、その重みがだんだん肩にくいこんできたら、しかめっつらになってくるのではないだろうか。

だのに大黒さまは、いつもニコニコしていらっしゃる。

ひょっとすると、お金ではないのかもしれないよ。

お金でないとすると何だろうか?」

と、問いをまた生徒に返しました。

いつまで待っても手があがりません。

その中、生徒の一人が、

「校長先生は何がはいっているとお考えですか?」

と、逆襲してきました。

「さて、わたしにも確かなことはわからないが、ひょっとすると、あの中には『よろこび』がはいっているのではないだろうか。

だから、あんなにうれしそうなお顔をしていらっしゃるのではないだろうか」

と、答えました。

そして、

「わたしたちは、みんな、それぞれ、背中に一つずつ袋をいただいているのではないだろうか。

そして、しあわせな人というのは、背中にたくさん『よろこび』を貯えている人のこと、不幸な人というのは、背中の袋に、不平・不満・愚痴を入れて背負っている人といえるのではないだろうか。

お互いに、きょう、こうして新しい年を迎えたわけだが、何とか、今年という年を、光いっぱいの年にするために、『よろこび』をいっぱい貯える年にしようじゃないか。

ところが、わたしは町の大売出しの福引き券をひいても、マッチの小箱くらいしかあたったことはない。

わたしはどうやらそういう宿命を背負っているらしい。

だから『大きいよろこび』とは無縁らしい。

そこで、考えた。

みんなが拾い忘れている『小さいよろこび』をたくさん貯えることにした」

と、宣言したことでした。

春夏秋冬
いつもありがとう

私は、小さいノートを持ち歩いておりまして、よろこびが見つかると、それを書きとめておくように努めているのですが、うっかりしえちると見すごしてしまいそうな小さく見えるよろこびが、みんな、すばらしい大きいしあわせにつながっていることに気づかせていただくのです。

若い頃にはうっかりしていたことの中に、こんな大切なしあわせがあったということを驚くとともに、こういうしあわせにであわせていただけるのは、年とったおかげさまかな、ありがとうと、よろこばせていただくのです。

 

きゅうりの漬物が 満点の味をひっさげて

わたしのために

かぼちゃも 茄子も 長豆も

それぞれが それぞれの最高の味をひっさげて

わたしのために

わたしのたるんだ胃袋に 目を覚まさせるために

さんしょも 食卓に 梅ぼしもその横に

もったいなすぎる もったいなすぎる

せめて わたしも きゅうりの漬物のひときれにでもなって

どなたかの胸に よろこびの灯をともしたい

さんしょの一粒にでもなって

生きがいを失っている人に

生きがいの 目を覚まさせてあげたい

思いあがるなと

叱られてしまいそうな気もするが……

一番はもちろん尊い
しかし一番より尊いビリがある

東井先生は子どものころから、体はあまり丈夫ではなかったようです。

「私は、生まれつき、いわゆる腺病質体質というのであったようで、村のおばさんたちが『お寺のぼんちゃんは、お気の毒だけど、とても30歳までは生きなさらんだろう』と噂していたと聞いています」と述べられています。

次の文章は、1927(昭和2)年、兵庫県の姫路師範学校に15歳で入学されたときの思い出です。

入学した以上は、必ず何か運動部に入らなければならないということで、いくつかの運動部の門を叩かれたそうです。

*               *

 はじめ、サッカー部の入部検査を受けました。

山の中の、貧しく小さな小学校で育った私には、あんなボールを蹴らせてもらうのは初めてでした。

(中略)

次は、野球部でした。生まれてはじめて、バットというものを握りました。なぜ、球が当たりやすいように平らにしておかないのか、こんなツルツルした丸太ン棒を、飛んでくる球に当てるなんて、まるで奇術ではないかと思いながら、バットを振りましたが、やはり、球は当たってくれませんでした。

次は庭球部でした。ラケットを握るのも初めてでしたが、これは、球が当たるようにうまくできていると、感心しながら振りましたが、見事に空振りで、はねられてしまいました。

次は、水泳部でした。プールの波が光っているのを見ると、おそろしくなって、尻込みしている私を、水泳部の上級生が、無理やりプールに突き落としました。カナヅチが浮く道理がありません。溺れてしまった私を、上級生が大あわてにあわてて引き上げてくれました。

次は競走部でした。これは溺れるはずがありませんから、少し、安心しました。100メートル走らされましたが、ビリでした。
「チョボイチご飯」を食べて育った栄養失調の私には、人並みに走れるだけのエネルギーもなかったのでしょう。

「おまえ、なーんにもあかんのやな」と、上級生たちが、あきれ顔で申しました。

その私を、気の毒そうに見ていた上級生の1人が、「おまえ、辛抱強く粘ることはできるかい」と、尋ねてくれました。

「はい、粘ることならできると思います」と、答えましたら、

「そうか、それではマラソン部にとってやる」といってくれました。

やっと、私の落ちつくところが決まったのでした。

「よし、粘り抜いてやろう!」と、一大決心をして、入部させてもらいました。

放課後、他の部員たちと一緒に、姫路の城北練兵場をとり囲む道を一周して帰るのが、毎日の日課でした。

マラソンも、ただ粘ればよいというものではなく、毎日、私が、ビリッコを独占することになりました。

練兵場一周は五千メートルということでしたが、週1日は、市川の鉄橋まで往復、というのがありました。

これは、一万メートル だということでした。この一万メートルコースの途中に、キリスト教の女学校がありました。大勢の女学生たちが見ている前を、仲間から何百メートルもおくれて、犬に吠えられながら走るのは、鈍感な私にも、ほんとうに、つらいことでした。

(中略)

ビリッコを走りながら、毎日、考えたことは「兎と亀」の話でした。あの話では、亀は兎に勝ちました。

けれども、兎が亀をバカにして、途中で一眠りしたりするものだから、たまたま、亀が勝ったにすぎません。

いくら努力しても、亀は、どこまでいっても亀で、走力は、とても兎には及びません。

ですから、あの話は、ねうちのある亀は、つまらない兎よりは、ねうちの上では上だという話ではないかと考えました。

亀は、いくら努力しても、絶対、兎にはなれない。

しかし、日本一の亀にはなれる。

そして、日本一の亀は、つまらない兎よりも、ねうちが上だという話ではないかと考えるようになりました。

「よし、日本一のビリッコになってやろう」と、考えることで、少し勇気のようなものが湧いてくるのを感じました。

そのうちに、また、気がつきました。

「もし、ぼくがビリッコを独占しなかったら、部員の誰かが、このみじめな思いを味わわなければならない。他の部員が、このみじめな思いを味わうことなく済んでいるのは、ぼくが、ビリッコを独占しているおかげだ」ということに気がついたのです。

「ぼくも、みんなの役に立っている」という発見は、私にとって、大きなよろこびとなりました。

世の中が、にわかに、パッと明るくなった気がしました。

そして「教員になったら、ビリッコの子どもの心の解ってやれる教員になろう。とび箱のとめない子、泳げない子、勉強の解らない子どもの悲しみを解ってやれる教員になろう。『できないのは、努力が足りないからだ』などと、子どもを責める教員にはなるまい」と思わずにはおれなくなりました。

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