もう、何年くらい前になるでしょうか。
毎日新聞社会部がまとめた『幸福ってなんだろう』(エール出版刊)という本が出版されました。
その本の「はしがき」に書かれた文章を、私は今も忘れることができません。
ご縁のある多くの皆さんにたびたびご紹介しているうちに、いつの間にか、私は、その文章を暗記してしまいました。
ご紹介しましょう。
昨年十二月。私の最愛の人が四十八年の生涯を終わって、永遠の眠りについた。
乳ガン手術後の転移ガンである。
その年の三月から脊髄が侵されて下半身がマヒし、大阪の自宅で寝たきりであった。
医者は「あと半年のいのち」と宣告した。
そのころ私は勤務地の福岡にいた。
大阪と福岡。
離ればなれのふたりは、毎晩、短い電話をかけあった。
彼女の枕元の電話機が「夫婦の心」を知っていよう。
彼女は自分の病気が何であるかをうすうす悟っていた。
死ぬ一カ月前。
真夜中に電話をかけてきた。
いつもの澄んだ声である。
「おきていらっしゃる?」
「うん」
「夜中に電話をかけてごめんなさい。私眠れなかったの」
「痛むか」
「痛むの。でも…」
しばらく声がとぎれた。
「私の一生は、本当に幸福な一生でしたワ」
泣いているようである。
受話器を持つ私の手はふるえた。
妻よ。
感謝すべきは、この私ではなかったか。
二十三年間、ずいぶんと苦労もかけたのに、彼女は私と子どもたちのために、よくつくしてくれた。
明るい家庭の太陽であったのに。
ーーという文章です。
奥さんには、ご自分の病気が何であるかわかっていらっしゃるのです。
末期癌の痛みの中で、いよいよ、自分の最期の日が近づいていることを、お感じになっているのです。
如来さまは、きっと奥さんのその絶望的なお心の中におはいりになって、絶望の淵から、奥さんを引き戻そうとなさって、光を放って、ご主人の大きな愛情に包まれて歩まれた、今までの人生の輝きをお見せになったのでしょう。
今までの人生の輝きをご覧になると、奥さんは、その感動をひとり占めしておくこがおできにならず、真夜中、電話で、その感動をお伝えになったのでしょう。
それをご縁に、「妻よ、感謝すべきは、この私ではなかったか」と、この奥さんに支えられてきた人生の輝きに、感動のあまり、受話器をおもちになる手がふるえたのでしょう。
このご夫婦が、仏法にご縁のある方であったかどうか、私にはわかりません。
でも、そんなことにかかわりなく、如来さまは一切衆生のために、はたらきつづけていてくださるのでしょう。
これは、相田みつをという方の詩です。聞いてください。
なみだをこらえてかなしみにたえるとき
ぐちをいわずにくるしみにたえるとき
いいわけをしないで だまって
批判にたえるとき
怒りをおさえてじっと屈辱にたえるとき
あなたの眼のいろがふかくなり
いのちの根がふかくなる
悲しみ・苦しみ・怒り・屈辱にであったとき、私自身、この詩を口ずさんでいると、何だか微笑みが浮かんでくるのです。
そういうことで、もうひとつ、私がよく口ずさんで、自分を励ます詩があります。野村康次郎という方の詩です。
雨は
ウンコの上にもおちなければなりません
イヤだといっても
ダメなのです
だれも
かわってくれないのです
というのです。この詩は、私を励ましてくれるだけでなく、ひとりの問題の子どもを生まれ変わらせてくれた詩でもあります。
奈良県の小学校の先生が、私の書物の中でこの詩をご覧になり、好きになり、墨で大きく書いて額に入れて教室に掲げておられたのだそうです。
その組にN君という荒れた子がいました。荒れざるを得なかったのです。お父さんが、この子のお母さんとこのN君と、弟を追い出したのです。それでお母さんと3人で暮らしていたのですが、お母さんは交通事故で亡くなってしまわれ、弟は施設に預けられ、N君は病気のおじいさん、おばあさんのところに預けられました。おばあさんは、耳が聞こえず、口もきけない方だったそうですが心不全で入院されました。肺ガンで床に就いておられたおじいさんは、そのショックで亡くなってしまわれました。それでN君は、追い出したお父さんの家に返され面白くない日を過ごすこのになったのですが、そういう中で、ずいぶん荒れた子になってしまっていたのです。
それが、6年になって、担任してもらった先生が「ウンコ」の詩を教室に掲げておられたのです。はじめのうちは、これを見てもせせら笑ってバカにしていたそうですが、だんだん、担任の先生の人柄に心を惹かれるようになっていきました。そして、ある日の授業時間の途中、N君はハッとしたのです、「ウンコ」というのは、自分がいままで出あってきたあのイヤなことではないか。すると雨は自分ということになる。雨はウンコの上にでもまっすぐおちていっている。それだのにぼくは、次々にやってくるいやなことを憎み、やけをおこしていた。そうだ、これからは、いやなことから逃げ出そうとしたり、ブツブツいってやけをおこすのではなく、いやなこといっぱいやってこいと、こちらからぶつかっていってやろうと考えるようになったというのです。ところが、不思議なことに、あまり好きになれなかった算数までがおもしろくなってきたというのです。
受けとめ方によっては、イヤなことまで、光った存在に変わってくれるのです。ただ一度の人生を空しいものにしてしまわないために、心に刻んでおいてほしいのです。
私は、今、長女が3歳の秋、お医者様から「お気の毒ですが、この病気は100人中99人は助からぬといわれているものです。もう今夜一晩よう請け合いません」といわれた晩のことを思い出しております。
脈を握っていると脈がわからなくなってしまいます。いよいよ別れのときかと思っていると、ピクピクッと動いてくれます。やれやれと思う間もなく脈が消えています。体中から血の引いていく思いで、幼い子どもの脈を握りしめていると、かすかに脈が戻ってくれるのです。このようにして、夜半12時を知らせる柱時計の音を聞いた感激。「ああ、とうとうきょう1日、親と子が共に生きさせていただくことができた。でも、今から始まる新しいきょうは?」と思ったあの思い。「ああ、きょうも親子で生きさせていただくことができた」「ああ、きょうも共に生きさせていただけた」というよろこびを重ねて、とうとう新しい年を迎えさせていただくことができた日の感激。
滋賀県から、密教の修行をなさっているという若い方が、わざわざ、私たちのために、来てくださいました。その方は、さすがに、私たちが直面しているきびしい事実を「仏罰」だとは言われませんでした。どんな災難も苦しみも、みんな私たちの側に、そういうことにであわねばならない「因」と「縁」とがあるからです、とおっしゃっていましたので、私も、大きくうなずかせていただきました。 ところが、「私はまだその力がありませんが、私の師匠は、多くの皆さんの災難の『因』や『縁』を確かめ、それを正すことによって、多くの方を救っていらっしゃいます。あなたも一度、師匠に、災難の『因』や『縁』をみてもらわれてはどうでしょうか」 と、おっしゃるのです。私は申しました。 「ご親切、まことにありがとうございます。仰せの通り、私どもが、こういう事実にであわなければならないのは、その『因』や『縁』が、私どもの側にあるからです。しかし、機械のどこか一部分が狂っているのであれば、『因』や『縁』を正せば、機械が正常に稼働しましょう。ところが、私どもの場合は、機械全体が、救いようのないものになっているということです。こうなりますと、『たとい罪業は深重なりとも、必ず救う』と呼びかけてくださる阿弥陀さまに、罪業ぐるみ、お預けする以外、他の道は、一つもございませんので・・・・・・」といって、お帰りいただいたことでした。 その後、間もなく、「近頃、大評判の名高いお坊さまが、御祈祷によって、多くの皆さんの災難を救っておいでになります。一度、御祈祷をお願いしてみられては如何ですか」 と、勧めてくださった方がありました。 「ご親切、まことにありがとうございますが、阿弥陀さまは、こちらが、一心こめてお願いしなかったら、私どものことを気にかけてくださらぬ如来さまではないのです。拝まない先から、拝まない者を、おがんでいてくださるのです。拝まないときも、おがんでいてくださるのです。祈らぬ者も、祈らぬときも、如来さまの方から、祈ってくださっているのです」 といって、帰っていただきました。
私は、学校の先生になりたかったので、学校は、師範学校を選びました。 入学してみると、全員、何かの運動部に入部せよということでしたが、私を入れてくれる部は一つもありませんでした。私があまりにも不器用すぎたからでした。行き場のない私を憐れんで、マラソン部が、やっと、私を入部を許してくれました。 毎日の日課は、姫路の城北練兵場一周(五千メートル)でした。週に一日は、市川の鉄橋まで往復(一万メートル)しました。ビリは私が毎日全部引き受けることになりました。 その一万メートルコースの途中には、女学校がありました。女学生たちの注目のなか、仲間から何百メートルも遅れ、犬にほえられながら走るのは、ほんとうにみじめでした。 そのビリを、私は、二年になっても、三年になっても、四年になっても独占しました。何年たっても、私よりのろいのは一人も入部してきてくれなかったからでした。 私は、毎日、ビリを走りながら「ウサギとカメ」の話を考えました。 カメがウサギに勝ったというが、カメはいくら努力してもウサギになれない。カメはカメだ。しかし、あの話は、値うちのあるカメは、つまらないウサギよりも、値うちが上だという話ではないか。カメはウサギにはなれないが、日本一のカメにはなれるという話ではないか。 とすると、ぼくは、ビリからは逃れることができなくても、日本一のビリにはなれるはずだ、よし、日本一のビリになってやろう、そんなことを考えながら走りました。走っているうちに、また気がつきました。ぼくがビリを独占しているせいで、ほかの部員は全員、ビリの悲しみを味わわずにすんでいる、ぼくも一つ役割を果たしていると気がついたのです。 すると、にわかに世界中が明るくなり、愉快になってきました。そして、先生になったら、走れない子、泳げない子、勉強のできない子の悲しみのわかる先生になろう。そういう子がよろこんで学校にきてくれるような先生になろうと、考え続けました。 私は、小・中・大学と、五十五年間、教師を勤めさせてもらいましたが、この願いだけは忘れなかったつもりです。