正楽寺日誌 つれづれなるままに

拝まないときも
おがんでくださっている如来さま

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滋賀県から、密教の修行をなさっているという若い方が、わざわざ、私たちのために、来てくださいました。その方は、さすがに、私たちが直面しているきびしい事実を「仏罰」だとは言われませんでした。どんな災難も苦しみも、みんな私たちの側に、そういうことにであわねばならない「因」と「縁」とがあるからです、とおっしゃっていましたので、私も、大きくうなずかせていただきました。  ところが、「私はまだその力がありませんが、私の師匠は、多くの皆さんの災難の『因』や『縁』を確かめ、それを正すことによって、多くの方を救っていらっしゃいます。あなたも一度、師匠に、災難の『因』や『縁』をみてもらわれてはどうでしょうか」 と、おっしゃるのです。私は申しました。  「ご親切、まことにありがとうございます。仰せの通り、私どもが、こういう事実にであわなければならないのは、その『因』や『縁』が、私どもの側にあるからです。しかし、機械のどこか一部分が狂っているのであれば、『因』や『縁』を正せば、機械が正常に稼働しましょう。ところが、私どもの場合は、機械全体が、救いようのないものになっているということです。こうなりますと、『たとい罪業は深重なりとも、必ず救う』と呼びかけてくださる阿弥陀さまに、罪業ぐるみ、お預けする以外、他の道は、一つもございませんので・・・・・・」といって、お帰りいただいたことでした。  その後、間もなく、「近頃、大評判の名高いお坊さまが、御祈祷によって、多くの皆さんの災難を救っておいでになります。一度、御祈祷をお願いしてみられては如何ですか」 と、勧めてくださった方がありました。  「ご親切、まことにありがとうございますが、阿弥陀さまは、こちらが、一心こめてお願いしなかったら、私どものことを気にかけてくださらぬ如来さまではないのです。拝まない先から、拝まない者を、おがんでいてくださるのです。拝まないときも、おがんでいてくださるのです。祈らぬ者も、祈らぬときも、如来さまの方から、祈ってくださっているのです」 といって、帰っていただきました。

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