正楽寺日誌 つれづれなるままに

拝まれ ゆるされ
生かされている私

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 お地蔵様にあいさつしようとしたとき、ハッとした。お地蔵様は私が手を合わせる

よりさきに、私に手を合わせていらっしゃる。拝むものだけを拝まれているのではない。

 背いている真っ最中も抱かれていた。

 仏さまは、私の向こうにではなく、私の背後にあった。

 私のような者も、拝まれ、祈られ、赦され、生かされている。

 幼い時からずっとずっと、こういう私によりそって、はらたきづめにはたらいて

くださったはたらき、願いがあった。

 大人にも、子どもにも、私たち一人ひとりにかけられている大いなるものの願いがある。

 生きるための一切の努力も投げ捨てて、眠りこけていた私であったのに、目が覚めて

みたら生きていた。いや、生かされていた。

 いつどこで、どんな大暴れをやり、自他を破綻に追い込んでしまうかもわからない

恐ろしいものを潜めている川にそって、岸がつくられた。私にそって本願がある。

 私だけでなく、親子ともども大いなるいのちに、願われ、祈られ、赦され、生かされている。

 どんな荒れ狂う川の水も、摂(おさ)めとっていく海のように必ず摂取される世界があった。

その世界のどまん中に、私は生かされていた。背いているときも、誘っているときも

「み手のまん中」であった。

 気がついても、気がつかなくても、大いなる親のひざの上にいる。

 どこへいっても、何をしているときも、わすれているときも、私を支えてくれてい

るものがある。

 自分を包んでいる大きな愛、願われているしあわせの思い、そういうものが、苦難

をのり越える力になってきた。

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