おとせば
こわれる 茶碗
いますぐにでもこわれる茶碗
おとせば
こわれる いのち
いますぐにでも こわれるいのち
でも
それだからこそ
この茶碗のいのちが 尊い
それだからこそ
この わたしのいのちが
いとしい
たまらなく
いとしい
こわれずに いま
ここにあることが
ただごとでなく
うれしい
だだごとでなく
ありがたい。
おとせば
こわれる 茶碗
いますぐにでもこわれる茶碗
おとせば
こわれる いのち
いますぐにでも こわれるいのち
でも
それだからこそ
この茶碗のいのちが 尊い
それだからこそ
この わたしのいのちが
いとしい
たまらなく
いとしい
こわれずに いま
ここにあることが
ただごとでなく
うれしい
だだごとでなく
ありがたい。
私が、若い頃読みふけつた懐かしい書物の中の一冊に、出隆(いでたかし)先生の『哲学以前』
があります。出隆先生は、哲学者であられるとともに、「神伝流」の水泳の達人でもあられたと聞いています。
その出隆先生が、何かに「水泳」のことをお書きになっていました。「水は、人間を浮かせるだけの浮力をもっている。
しかるに、人間が溺れるというのは、心の重みで溺れるのである。だから、溺れた人というのは、『こんな所で…』
と思われるほど、浅い所で溺れている。結局、水の浮力に足をとられてあわててしまい、その心の重みで溺れたのである。
心を無にして、身も心も水に預ければ、自分の力を使わなくてもおのずから浮かぶ」というような内容の文章でした。
出隆先生の、「心を無にして、身も心も水の浮力に預ければ、おのずから浮かぶ」というお言葉は、
親鸞聖人が「如来の本願力に乗託すれば、おのずから然(し)からしむる自然法爾(じねんほうに)の世界を恵まれる」
とお教えくださっていることにも通じているように思います。またそれは、私が子どもの日、あの熱くて熱くてたまらなかった
お灸の熱さが、「きばり心」を抜いたとたん、あんな快い安らぎの世界に変わったことにも、つながっている気がするのです。
私は、初め、お灸の熱さに負けまいとする「きばり心」の重みで、熱さの底に沈み、熱さの苦しみに溺れていたのです。
それが「きばり心」を捨てたとたん、熱さが苦にならない世界に浮かせてもらったのです。
6月1日は
看板犬 次男 ルイの13回目の誕生日でした🎂🎉
ルイは生後半年頃
恵まれない環境の元育ったところを
縁があって里親として迎え入れました
我が家に迎えて数カ月後
庫裡の屋上から誤って下の自転車置き場へダイブして大怪我
7,8歳の頃
肝臓を悪くして
12歳6ヶ月の頃
糖尿病にかかり現在闘病中です
こうやって振り返ると
本当に波乱万丈の人生を送っています
少しずつ足腰も衰えをみせてまいりました
ですが
それでも元気に日々を過ごしているルイと居ると
生老病死という【四苦】を教えてもらうとともに
精一杯に生きる大切さを
いつも私たちは教えてもらっています
本当に有り難いことです
1日1日のいのちを大切に
これからも大切な家族として過ごしていきたいと思います