正楽寺日誌 つれづれなるままに

カメはウサギになれないが
日本一のカメになれる

私は、学校の先生になりたかったので、学校は、師範学校を選びました。  入学してみると、全員、何かの運動部に入部せよということでしたが、私を入れてくれる部は一つもありませんでした。私があまりにも不器用すぎたからでした。行き場のない私を憐れんで、マラソン部が、やっと、私を入部を許してくれました。  毎日の日課は、姫路の城北練兵場一周(五千メートル)でした。週に一日は、市川の鉄橋まで往復(一万メートル)しました。ビリは私が毎日全部引き受けることになりました。  その一万メートルコースの途中には、女学校がありました。女学生たちの注目のなか、仲間から何百メートルも遅れ、犬にほえられながら走るのは、ほんとうにみじめでした。  そのビリを、私は、二年になっても、三年になっても、四年になっても独占しました。何年たっても、私よりのろいのは一人も入部してきてくれなかったからでした。  私は、毎日、ビリを走りながら「ウサギとカメ」の話を考えました。  カメがウサギに勝ったというが、カメはいくら努力してもウサギになれない。カメはカメだ。しかし、あの話は、値うちのあるカメは、つまらないウサギよりも、値うちが上だという話ではないか。カメはウサギにはなれないが、日本一のカメにはなれるという話ではないか。  とすると、ぼくは、ビリからは逃れることができなくても、日本一のビリにはなれるはずだ、よし、日本一のビリになってやろう、そんなことを考えながら走りました。走っているうちに、また気がつきました。ぼくがビリを独占しているせいで、ほかの部員は全員、ビリの悲しみを味わわずにすんでいる、ぼくも一つ役割を果たしていると気がついたのです。  すると、にわかに世界中が明るくなり、愉快になってきました。そして、先生になったら、走れない子、泳げない子、勉強のできない子の悲しみのわかる先生になろう。そういう子がよろこんで学校にきてくれるような先生になろうと、考え続けました。  私は、小・中・大学と、五十五年間、教師を勤めさせてもらいましたが、この願いだけは忘れなかったつもりです。

「すみません」「ありがとう」
「ごくろうさん」を大切に

癌手術で、生まれてはじめて入院している間のことでした。毎日毎日、便所に行くのにも、押して行かなければならない、点滴棒と一緒の暮らしは、やり切れないものでした。これが、生きているということなのかなと、自問しながらの毎日でした。  そんなある晩、終わった点滴を外しに来てくれたかわいい看護師さんの、  「ご苦労さまでした。お疲れさまでした」 の、心のこもったことばは、今も忘れられません。薬局でもらうものだけが薬だと思っていた私でしたが、心身ともに甦る薬を、私は、そのかわいい看護師さんから貰った思いがしました。  考えてみると、点滴が、私にとって、決して快適なものでないことが事実ではあっても、それは、私が私のためにやってもらっているものです。私の方から「ご厄介をおかけします」と、お礼を言わなければならないはずのものです。それを、若いかわいい看護師さんが、心からねぎらってくれるのですから、全く感激しました。心身を甦らせる高貴薬をもらった思いがしました。  馴れっこになってしまっている家族の間でも、心して、「ありがとう」「すみません」「ご苦労さま」「お疲れさま」を大切にしなければ・・・・・・と、その看護師さんから教えられた気がしました。

◯は大きく☓は小さく
はげましてもらえば元気がでるのです

学期末になって、子どもたちが成績通信簿をもらう頃になると、いつも思い出される作文があります。
小四  女
「おかあちゃん、ほら、つうしんぼもろてきた」といってわたすと、おかあちゃんはうけとって、だまって見ていられました。ほめてもらえるかと思っているのに、何もいわれません。それで「おかあちゃん、はやくなんとかいうて・・・・・・」   するとおかあちゃんは「たいしたことはない」   わたしは、ほめてもらえるかと思って走って帰ったのに、がっかりしてしまいました。   小五 男   通信簿をもらってみると「4」が二つもついていた。ぼくは大急ぎで帰った。   お父さんは庭先で牛のせなかをかいていた。「お父ちゃん、これみい、通信簿もらったぜ」というと、お父さんは牛のせなかをかきながら「あっちにおいとけ、あとでみる」といった。ぼくはつまらんので「ふーん」といって家の中へはいっていった。   夕はんのとき、お父さんのおぜんの上においといた。お父さんは見ていたが「なんじゃあ、『3』が四つもあるじゃないか」といった。ぼくは「4」が二つもあるのにと思った。  子どもたちは、がんばりを認めてもらいたがっているのです。いいところ、◯を見てもらいたがっているのです。でもお父さんもお母さんも、いいところ◯はなかなか見えないらしいのです。問題点、☓は見えすぎるくらい見えるらしいのですが・・・・・・。やはり期待過剰ということでしょうか。  そこで、私は、先生方に「子どもに◯をつけてやるときには、誰にでもすぐ目につくように、心をこめて、鮮やかな大きいのをつけてやってください。☓は虫めがねで見なければ見えないくらいのでいいのですよ」とおねがいしてきました。そして、親ごさんがたには「◯を見てやりましょう。◯が見つかったらうんと励ましてやってください」とおねがいしてきました。   小四 男   おとうさんは、じいっと見ていたが、   「うん、まあこれならよかろう。お父さんの四年のときより上とうじゃ」  といってくれました。ぼくはほっとして、これからは、まい日、べんきょうをわすれないようにするぞ、と、けっしんしました。

 

力をぬいたとたん
世界がひらける

私が、若い頃読みふけった懐しい書物の中の一冊に、出隆先生の『哲学以前』があります。出隆先生は、哲学者であられるとともに、「神伝流」の水泳の達人でもあられたと聞いています。  その出隆先生が、何なかに「水泳」のことをお書きになっていました。「水は、人間を浮かせるだけの浮力をもっている。しかるに、人間が溺れるというのは、心の重みで溺れるのである。だから、溺れた人というのは、『こんな所で・・・・』と思われるほど、浅い所で溺れている。結局、水の浮力に足をとられてあわててしまい、その心の重みで溺れたのである。心を無にして、身も心も水に預ければ、自分の力を使わなくてもおのずから浮かぶ」というような内容の文章でした。  出隆先生の、「心を無にして、身も心も水の浮力に預ければ、おのずから浮かぶ」というお言葉は、親鸞聖人が「如来の本願力に乗托すれば、おのずから然らしむる自然法爾の世界を恵まれる」と教えくださっていることにも通じているように思います。またそれは、私が子どもの日、あの熱くて熱くてたまらなかったお灸の熟さが、「きばり心」を抜いたとたん、あんな快い安らぎの世界に変わったことにも、つながっている気がするのです。  私は、初め、お灸の熱さに負けまいとする「きばり心」の重みで、熱さの底に沈み、熱さの苦しみに溺れていたのです。それが「きばり心」を捨てたとたん、熟さが苦にならない世界に浮かせてもらったのです。  どなたのお作か存じませんが、「散るときが浮かぶときなり蓮の花」という句が思い出されます。「自分・・・・・・」という「我」が散ったとき、ポッカリ、安らぎの世界に浮かばせてもらうのです。水に「浮力」があるように、私に注がれている「本願力」が、沈むしかない私を、浮かせてくださるのです。

うるおいのある目で見なかったら
ほんとうのことは何も見えない

既に人生の日がとっぷり暮れてしまっている私です。この私が「人生の朝に立っているあなた」に、何としても言い遺しておきたいことは、せっかくいただいた、ただ一度の人生を「空しく人生」にしないようにしてくださいということです。  七十年生きても、百年生きても、正味が空しければ、何のねうちもありません。人生は、長く生きるかではなくて、どう生きさせてもらうかです。そう思うと、私なんか、はずかしくてなりません。そこで、いままでの人生をふりかえり、私は、近頃、次のように考えて、自分に言い聞かせています。  忘れていた  忘れていた忘れていた  牛のような 静かな 澄んだ  うるおいのある目で物事を見るのでなかったら  ほんとうのことはなんにも見えないということ  ものほしげなキョロキョロした目  おちつきのないイライラした目  うるおいのないカサカサした目  何かに頭を縛られた偏った目でも  しあわせのどまんなかにいても  しあわせなんか見ることも頂くこともできないまま  せっかくいただいた二度とない人生を  空しく過ごしてしまうことになるのだということを  忘れていた

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