また また
新年を 迎えさせてもらった
しかも 妻もいっしょに
四月の誕生日がくると
私は 七十七になる
妻は 七十一になる
いよいよ 深まっていく「老」
老いても
稔りの秋の黄金の稲のように 輝いて生きている人がある
みんなを 敬仰させる
紅葉樹の紅葉のように
いよいよ 見事に 生きている人がある
私の友人の中にも そういう人がある
しかし 私のように
黄金の輝きを恵まれるだけの稔りももちあわせず
紅葉の素質ももちあわせない 老人は
何を拠りどころに
どのように 生きさせてもらえばよいのか
多くの老人たちを燃えあがらせているゲートボールさえ できない
無能 無才 無芸 無趣味の私は
どう 生きさせて もらえばいいのか
ひょっとするとこんな私どもに
こんなまばゆい新年が恵まれたということは
それを 課題に生きてみよ ということであろうか
でも これは
黄金に輝く力をもった人が黄金に輝くことよりも
紅葉する素質をもった木が紅葉することよりも
もっと むずかしい 宿題ではないのか
しかし しかし
こんな 私どもにも
どうやら
道が 用意されているようだ
こんな 私どもでも
赦されて生きる道
人間は五千とおりの可能性をもって生まれてくるというのが、今日の学者の先生の定説だということです。
せっかく人間に生まれさせてもらいながら、狼にさらわれ、狼のくらしの中で狼に育てられたために、生き方のすべてが狼になってしまっていたという二人の女の子の実話を思い出します。
殺人鬼も、泥棒も、爆弾犯人も、問題少年も、みんな、誰かが、せっかくの人間の子どもを、そのような可能性の方向に突っ走らせてしまったのです。
お釈迦さまも、お若い頃、たくさんな可能性の中でお迷いにお悩みになりました。
けれども、遂に、この大宇宙の根源のところで、はたらきづめにはたらいている大きな願い(本願)に目覚められ、この願いに生きる以外に自分をほんとうの自分に育てる道はないことを自覚なさり、それを私たちに教えてくださったのです。
うっかりしていると見過ごしてしまうような小さいすみれにも、願いはかけられているのです。
「小さくてもいいのだよ、あんたしか咲かせることのできないあんたの花を、力いっぱい咲かせておくれよ」と。
花のいのちの短い桜にも「花のいのちの長い短いは問題じゃないんだ。力いっぱい咲くことこそが大事なんだ。力いっぱい咲いてさえくれれば、それでかわいいさくらんぼが誕生してくれるんだよ」と、そんな願いの声が聞こえてくるではありませんか。
勤行に
疲れる
勤行の後
お花の水をかえるだけに
ハアハアいう
お役に立つことが
させてもらえなくなってしまった 私
毎晩 床に就くと
「せっかくいのちをいただきながら
申しわけありません」
「すみません」
「それだのに一日 ありがとうございました」
「南無阿弥陀仏」
そう申す以外ない
申しわけない
すまない
もったいない
近ごろの 私
食事さえも
わびながら いただく
申しわけない
すまない
もったいない
近ごろの私。
よいことばかりやってくるように
つらいこと
苦しいことはやってこないように
そんなことを願っても
それは 無理というもの
どんなことが やってきても
おかげさまでと
それによって
人生を 耕させてもらう道
人生を深め
豊穣にさせていただく道
それが
お念仏の道
悲しみや
さみしさで
人生を 深めさせてもらう
のっぺらぼうの
浅い人生では
申しわけないから
南無阿弥陀仏
「おはよう」の挨拶がすむと、私は「痛いだろうか?」と言いながら、いきなり朝礼台の上で私の腕を曲げてみせました。不意にそんなことをするものですから、大きい子どもたちは私の意図を読みかねて、あっけにとられている様子でした。ところが、一年生の子どもが「痛うないです」といってくれました。「じゃ、こっちむきに曲げたら?」といいながら、関節を逆に曲げようとしました。
「校長先生、そんなことしたら痛いです」
と言ってくれたのは、やはり一年生でした。
「そう、こんな方に曲げたら痛いね。骨がこわれてしまうね。でもね、きのうみんなが帰るのを見ていたらね、運動場で、こうもり傘をビューンと急にふり回すもんだからね。こうもり傘が朝顔みたいに上向きに開いてしまってね、こうもり傘の骨が痛 い痛い、痛いよって泣いているのに、その泣き声の聞こえない子がいたようだぞ。それからね、みんなが廊下を歩いているのをみるとね、上靴の踵のところを踏みつけている子がいてね、靴が、痛い、痛いと泣いているのが聞こえないのかなと思ったんだ。
もちろん、みんなの中には、こうもり傘や靴をいじめないばかりか、持ちものをかわいがってやっている人もたくさんいるんだが、明日は、自分の大事に大事にしている物がある人は、それを持ってきて見せてくれないかね」
と頼みました。
そういう次第で、あくる日は、はからずも「愛物展覧会」ができてしまいました。
おじいちゃんの硯をお父さんが使い、それをぼくがもらって使っているという硯。
お母さんの下敷きをお姉さんが使い、破れたところにセロテープをはりつけてわたしが使っているという下敷き。お父さんの小学校のときの鉛筆削りをもらって使っているという鉛筆削り。鉛筆が短くなって使えなくなったら、「さよなら、ありがとう」とお礼をいい、箱の中に納めてから新しい鉛筆をおろすという子どものもってきた「さよなら、ありがとう」と書いた蓋をとってみると、綿をしいた上に、使えなくなった短い鉛筆が、きちんと並んでいました。