正楽寺日誌 つれづれなるままに 正楽寺日誌 つれづれなるままに

「あたりまえ」をみんな
なぜ喜ばないのでしょう

 隣の町のお寺の門前の掲示板に、

「目をあけて眠っている人の目を覚ますのは、なかなかむずかしい」

と書いてありました。

「目をあけて眠っている人」というのは私のことではないかと思うのといっしょに、

悪性腫瘍のため亡くなられた若き医師、井村和清先生が、飛鳥ちゃんというお子さん

と、まだ奥さまのお腹の中にいらっしゃるお子さんのために書き遺された『飛鳥へ、

そしてまだ見ぬ子へ』(祥伝社刊)というご本の中の「あたりまえ」という詩を思い

出しました。

  あたりまえ

あたりまえ

こんなすばらしいことを、みんなはなぜよろこばないのでしょう

あたりまえであることを

お父さんがいる

お母さんがいる

手が二本あって、足が二本ある

行きたいところへ自分で歩いてゆける

手をのばせばなんでもとれる

音がきこえて声がでる

こんなしあわせはあるでしょうか

しかし、だれもそれをよろこばない

あたりまえだ、と笑ってすます

食事がたべられる

夜になるとちゃんと眠れ、そしてまた朝がくる

空気を胸いっぱいすえる

笑える、泣ける、叫ぶこともできる

走りまわれる

みんなあたりまえのこと

こんなすばらしいことを、みんなは決してよろこばない

そのありがたさを知っているのは、それを失くした人たちだけ

 なぜでしょう

 あたりまえ

「よろこび」の種をまこう

 私が中学校の校長を勤めさせてもらっていた頃のお正月でした。例年のように

「おめでとうございます」の会を開きました。そのとき、私は、

「大黒さまは、いつ見ても背中に大きな袋をかついでいらっしゃる。そして、いつ

見てもニコニコしていらっしゃる。生徒の皆さん、あの袋の中には、いったい、何が

はいっているのだろうか。いつもニコニコしていらっしゃるところをみると、だいぶ、

いいものがはいっているにちがいないのだが、何がはいっているのだろうか?」

と、質問しました。一斉に手があがりました。一人の生徒を指名しますと、

「きっと、お金がたくさんはいっているのだと思います。だからあんなうれしそう

な顔をしていらっしゃるのだと思います」

 「ほかの考えの人はいませんか?」

と、尋ねてみましたが、一人も手をあげる生徒はいませんでした。みんな、一人残らず、

お金がはいっていると信じているようでした。

 「そうかもしれないね。あんな大きな袋にお金を入れたらずいぶんたくさんはいる

だろうな。だからあんなうれしそうな顔をしていらっしゃるのかもしれないね。だけど、

ずいぶん重いだろうな。かついだときは嬉しかったろうが、その重みがだんだん

肩にくいこんできたら、しかめっつらになってくるのではないだろうか。なのに大黒

さまは、いつもニコニコしていらっしゃる。ひょっとすると、お金ではないかもしれ

ないよ。お金でないとすると何だろうか?」

と、問いをまた生徒に返しました。

 いつまで待っても手があがりません。その中、生徒の一人が、

 「校長先生は何がはいっているとお考えですか?」

と、逆襲してきました。

 「さて、わたしにも確かなことはわからないが、ひょっとすると、あの中には

『よろこび』がはいっているのではないだろうか。だから、あんなに嬉しそうなお顔を

していらっしゃるのではないだろうか」

と、答えました。そして、

 「わたしたちは、みんな、それぞれ、背中に一つずつ袋をいただいているのでは

ないだろうか。そして、しあわせな人というのは、背中にたくさん『よろこび』を貯え

ている人のこと、不幸な人というのは、背中の袋に、不平・不満・愚痴を入れて背負って

いる人といえるのではないだろうか。お互いに、きょう、こうして新しい年を迎えた

わけだが、何とか、今年という年を、光いっぱいの年にするために、『よろこび』

をいっぱい袋に貯える年にしようじゃないか。ところが、わたしは町の大売出しの

福引き券をひいても、マッチの小箱くらいしかあたったことはない。わたしはどうやら

そういう宿命を背負っているらしい。だから『大きいよろこび』とは無縁らしい。

そこで、考えた。みんなが拾い忘れている『小さいよろこび』をたくさん貯えることに

した」

と、宣言したことでした。

悲しみにたえるとき
あなたの目の色がふかくなる

 三河のあたりは、昔から仏さまの教えを大切にされてきた地方で、そのためか、

中学生など、ほんとうに立派な生徒が育てられてきており、尊く思ってきました。

 ところが、その三河で、過日、女子中学生が二人一緒に飛びおり自殺をするという

事件がおきてしまいました。きっと、死なねばならない程のつらいことがあったから

にはちがいないのですが、もしもこの生徒たちが、ほんとうに仏さまのお心をいただ

いた先生方や家族の方々の毎日の生き方にふれて育ってきてくれていたら、決して、

死を選ぶようなことはしなかったろうと思います。

 仏さまの教えは、決して甘っちょろいものではありません。『大無量寿経』に「身

自らこれにあたる。代る者あることなし」とありますように、悲しみもつらさも、自

分の荷物は自分の荷物とあきらかに見きわめ、覚悟を決めて背負わせていただき、そ

のことを通じて、仏さまの大きなおいのちに目覚めさせていただく教えです。このこ

とを、仏教詩人であられる相田みつをという方は、

  いのちの根

 なみだをこらえて

 かなしみにたえるとき

 ぐちをいわずに

 くるしみに  たえるとき

 いいわけをしないで  だまって

 批判にたえるとき

 いかりをおさえて

 屈辱にたえるとき

 あなたの目のいろがふかくなり

  いのちの根がふかくなる。

とうたっていらっしゃいます。

「明日」は「明るい日」

 下関市には、よく手紙をくれる子どもがたくさんあります。私のよく存じ上げている

先生が、私のことを度々話してくださったためだと思われます。

 その中の一人、大北さんという女の子が、小学校を卒業する前、

「もうすぐ卒業だと思うと、名残りおしくなって、ゴミを見ると拾わずにおれなく

なりますし、ゆがんでいるものを見ると、まっすぐ整頓せずにおれなくなります。

しかし、卒業の向こうに、私には、中学生としての誕生が待っていてくれるので、

うかうかしておれない気持ちになります」

というような手紙をくれました。そこで、私も、

「私も、人生の卒業を目の前にしているので、あれもしておかなければ、これも

しておかなければと、忙しい毎日を過ごしています。しかし、私にも『永遠への誕生』

が待っていてくれるので、心を新しくしてがんばらなければなりません」

というような返事を書きました。すると、すぐに、返事の返事が届きました。

 「『人生の卒業』の向こうには、もう何もないと思っておりましたのに、『永遠の誕生』

があったなんて、よいことを教えていただきました。それで、『明日』という字は『明るい日』

と書くんですね」

と、ありました。

 であったこともない小学生から、すばらしいことを教えていただきました。

「今日」がある以上、必ず「明日」がある。「今日」が、どんなにつらい日であっても、

必ず「明日」がある。「今日」がどんなに悲しい日であっても、必ず「明日」がある。

「今日」があり「明日」があるなどということは、わかりきった、あたりまえのこと

だと思って、七十七年も、ぼんやり生きてきた私ですが、必ず、まちがいなく「明日」があり、

それを「明るい日」として与えられるということは、すばらしいことなんだなと、

目覚めさせてもらいました。こんなすばらしいことを、私は、卒業前の見知らぬ小学生から

教わったのです。

 私が恵んでもらった「忘れられないことば」が、どなたかのお役に立ったら、

しあわせだと思います。

「俱会一処」
大いなるであいの世界

 「生」と「死」を超え、血のつながりの「有」「無」をも超えて、俱(とも)に一処(ひとところ)に会う

ことのできる世界(阿弥陀さまの国であるお浄土)、これを如実に教えてくれる作文があります。

 これは、ある製薬会社が、「母の日」を記念して、全国の小学生たちから「お母さん」

という題の作文を募集したときの入選作品です。

 

 二人のおかあさん 千葉県 四年 羽根井 信綱

 「きょうはおかあさんのお命日よ」

としらせてくれる今のおかあさん。おぶつだんにいつもお花をそなえてくれるのもこのおかあさん。

「おかあさん、ぼくはしあわせなの、だからおかあさんのお命日まで忘れてしまうんです。

わるいぼくですね」

といって、こんどもおわびをしたんです。

 なくなったおかあさんは、いつもぼくとねながら、「おとうさんは、いつになったら

ふくいんするのでしょう、ね、信ちゃん」

といって涙ぐんでいた。そういうおかあさんの顔がうかび、おぶつだんにむかって、

ぼくはうっかり「おかあさん」と呼んでしまった。すると、お勝手の方で「はい」と

返事がして、ぼくはあわてた。おかあさんの姿があらわれて「なあに?」といわれて

も返事ができなかった。でも、むりにわらって「何かいいものない?」というと、

「おまちなさい。おかあさんにおそなえしてからよ」

といって、草もちがおかあさんにそなえられた。そして、おぶつだんにむかって、

おかあさんは、ながいながいおまいりをしている。ときどき「信綱ちゃんが……」

「信綱ちゃんが……」と、ぼくのことをおぶつだんのおかあさんにお話ししている。

それをみているぼくの目に、涙のようなものがうかんできて、ぼくの目はかすんでしまった。

おかあさんは、そんなこと、なんにもしらないようすで、おぶつだんにお話ししている。

 ぼくは、おぶつだんの中のおかあさんと、その前でおまいりしているおかあさんを、

いろんなふうに考えてみた。おとうさんやぼくだけでなく、なくなったおかあさんにまで。

ほんとにぼくはしあわせだ。

 夕飯のとき、このことをおとうさんに話したら、「おまえがかわいいから、おかあさんは、

おまえのほんとうのおかあさんになろうとしているのだよ」

といった。ラジオがやさしい音楽をおくってくれている。テーブルにはお命日のごちそう

がならんでいる。おとうさん、おかあさん、ぼく、おぶつだんの中のおかあさん。

ほんとにぼくはしあわせだ。

「おかあさん、ながいきしてね」

といったら、そばにいたおとうさんはわらっていたけど、ぼくは、なくなったおかあさんが

生まれかわってきた、それが、今のおかあさんだと考えて、ほんとうは、おかあさんの

お命日を忘れようとしているのです。

 

というのです。これこそ「俱会一処の世界」(倶に一処で会う)ではないでしょうか。

「処」とは、ほとけさまの国、阿弥陀さまのお浄土です。

 この「大いなるであいの世界」の中にこそ人間のまことのしあわせがあるのでは

ないでしょうか。ところが、私たちはこの世界を今求めているのでしょうか。「であい」

の方向にではなく、「我」「他」「彼」「此」と互いに自己を主張しあい、責めあい、

壊しあう方向に進んで、その愚かさに目を覚まそうとしないでいるのが、今日の私たち

のあり方ではないでしょうか。

6 / 20«...567...»
ページ上部へ