仏事の心得仏事の心得

日常に生きた仏教を!

先日、本の整理をしておりますと、御本山から刊行された本が出てきました。

その本は「Q&A」形式で構成されているものでしたので、その中から一つご紹介させていただきます。

 

「Q宗教なしに立派に生活している人があるのに、どうして信仰が必要なのか。」

 

「A法律や道徳の尺度からはみ出さないように行動をしていれば、それで良いという考え方もありましょう。

(中略)

宗教は人間の行動よりも、人間の存在そのものを深く見つめていく生き方を知らしてくださる教えであります。

(中略)

宗教は単に「立派」に生きるための手段ではなく「真実」に生きようとする人の大切なよりどころであります。」

                                        『人生の問い』より

 

「立派に生きる」と世間で評されていることについて考えてみますと、有名学校に進学する、有名企業に就職するなど、

いわゆる地位や名誉、学歴のように、他人から見えるものが多いように思います。

もちろん周りから評価されるように努力することも、そこにある家族の支えも素晴らしいものです。

しかし、それだけが本当に「立派」で「素晴らしいもの」なのでしょうか。

 

私たちには「心」があります。

「心の豊かな人」というのは、人間としてとても魅力があるものです。

「心の豊かな人」とは「心の育みを大切にされている人」といえるでしょう。

では、心を育むためにはどうしたら良いでしょうか。

それは、「自分の生命、人生としっかりと向き合う」ということです。

この本では、「宗教は生き方を知らせてくださる教えであり、真実に生きようとする人の大切なよりどころである」とあります。

つまり、仏教はそれを知らせてくださり、人生の道しるべとなるのです。ただし、宗教の本を読んで覚えれば良いというわけではありません。

 

浄土真宗中興(ちゅうこう)の祖(そ)と呼ばれている蓮如(れんにょ)上人(しょうにん)は

 

「聖教(しょうぎょう)読みの聖教(しょうぎょう)読まずあり 

             聖教(しょうぎょう)読まずの聖教(しょうぎょう)読みがある」

 

と、仰っています。

 

どれほど聖教(教えの本)を読み聞かせることが出来ても、

その真意を読み取ることなく、ご法義(教え)を心得ることもないのは「聖教読みの聖教読まず」だと言うのです。

真実の道(教え)を聞いて、知識として知っているだけでは意味がないということです。

 

私自身の身の在り方を仏教に問い、生き方を知らせてくださる教えをいかに自分の生活に落とし込み、役立てるか。

それこそが「生きた仏教(仏道を歩むこと)」であり、「心を育む」ということです。

 

住職自身、一生をかけて関係を築き続けたいと思うのは、心が豊かであり、人として魅力のある人です。

そして、自分自身もそのような生き方に少しでも近づけるように努力したいと、改めて思うことです。

これを読まれている貴方はいかがでしょうか。

 

ぜひ、この「私」に生き方を知らせてくださる仏様の教えを人生に生かせるように、

これからも繰り返し仏様のお話を聞かせていただきましょう。

世間虚仮 唯仏是真

春は別れと出会いの季節です。

親しい人との別れがある一方、新しい出会いもあります。

どちらが良いという訳ではないのですが、何となく「別れは悲しく、出会いは嬉しいもの」と

思われている方が多いのではないでしょうか。

私たちは物事を自分から見える一方向でしか捉えることが出来ません。

「人との別れ」について申せば、それは「別れ」という出来事ですが、

そこに「悲しい」「寂しい」という感情をくっつけてしまうのが、私たち人間です。

人間はどこまでも自らの思い中心にしか生きていけません。

その結果、自らの思いで自分自身を苦しめたり、「自分の考えが善、自分と異なるあの人の考えは悪」のような

判断をしてしまいがちです。

一方向からしか見ていないのに、全部見えていると思ってしまっているのが、私たちの偽ることのできない姿です。

仏教ではそれを「我(自分の都合・はからい)にとらわれている」「我執(がしゅう)」と言います。

 

さて、今年は親鸞聖人が「和国(わこく)の教主(きょうしゅ)」と讃(たた)えられ、日本に仏教を取り入れてくださった

聖徳太子の一四〇〇回忌に当たります。

聖徳太子は「世間(せけん)は虚仮(こけ)なり、唯(ただ)仏(ほとけ)   のみ是(こ)れ真(しん)なり」という言葉を残されています。

この世にある物事はすべて仮のものであり、仏の教えのみが真実である」という意味です。

先程も申した通り、私たちの   物の見方は、自らの思いを中心とした一方向からのもので、真実と言えるようなものではありません。

例えば「老い」というもので申しますと、ある人は「情けないこと、目を背けたくなるもの」と、

マイナスの感情をつけることでしょう。

その一方で「人生を色濃く豊かにするもの」とプラスのイメージをつける方もいらっしゃるでしょう。

どちらも「老い」という現象に「私の感情をつけて捉えている」に過ぎず、その感情に振り回されてしまいがちです。

仏さまは「老い」ということも「諸行無常」、つまり、この世のものは絶え間なく変化しているものだと教えてくださっています。

「世間(せけん)は虚仮(こけ)なり、唯(ただ)仏(ほとけ)のみ是(こ)れ真(しん)なり」とは、真実を見ているつもりでも、

実は自分のはからいでしか世界(物事・他者の気持ち等)を見ることができない私たちだからこそ、

仏さまの教えを指針とせよというお示しであります。

 

私たちは、自分の感情、他人の意見に振り回されていると、つい自分を見失いがちです。

そのような中、「不変の在り方」を教えてくださる仏さまの教えほど、私たちの人生の道しるべとなるものはありません。

それを心の拠り所として、しっかりと生き抜く力を身に付けるためにも、

これからもご一緒に仏さまの教えを聴かせていただきましょう。

生命と向き合う お正月

お盆・お彼岸に並び、正月はお墓の問い合わせが多い時期だとお聞きしました。

その理由を考えてみますと、正月は普段離れて暮らしている家族、親戚一同が集まる機会です。

その中で、親世代は子ども・孫世代の成長を喜ぶ中に自らの老い・「死」を実感し、

子ども世代は親世代の姿を目の当たりにして、老い・「死」について考えさせられるのでしょう。

そうして、自然と皆が私の生命の行き先を意識するのではないかと推測します。

 

「いつかはこの生命を終える最期の瞬間を迎えなくてはならない」ということは、誰もが頭では理解をしています。

しかしながら、頭の中でわかっていても、自らの「死」、大切な家族の「死」を簡単には受け入れられないものです。

お墓を探す、葬儀について考える、財産分与等を決める、いわゆる「終活」と呼ばれるものは、

自分が亡くなった後のことを考えるものですから、自分の希望を家族に伝えて安心する方もいらっしゃれば、

改めて自分の「死」というものについて考えさせられて不安になり、暗い気持ちになる方もいらっしゃるかも知れません。

ただ、それだけではなく、終活をすることにより、「死」を通して「生」を意識することが出来るという一面もあります。

 

普段から生命をいただいている尊さに気付ければ良いのですが、なかなかそれが出来ない私たちです。

「何でも在ることが当たり前」の生活を送り、その有り難さに気付けない私の姿がそこにはあります。

そのような私が、「死」と向き合うことで初めて、「生」の尊さに気付かされる。

 

 

「死」と向き合うとは、「生」と向き合うことなのです。

 

 

仏教では、「死もまた我らなり」と説かれます。

この生命をいただいた以上、いつかは生命を終えなくてはなりません。

それが、今日なのか明日なのか、分からないのが、私たちがいただいている生命です。

「生」と「死」は分けていけるものではなく、両方合わせて「私たちの生命」なのです。

「死」という自然なことから目を逸らし、「生」が見えづらい今だからこそ、

大切なことを教えて下さっている仏様のみ教えにしっかりと耳を傾け、受け止めていただきたいと思うことです。

 

時間に限りのある生命、誰とも替えの効かないたった一つの生命とご自身がしっかりと向き合い、

今年もご一緒にお参りをさせていただきたく存じます。

仏教の本質について考える

新型コロナウイルスの終息が見えない中、この度の報恩講法要もインターネットを介してお参りいただくことになりました。

「コロナ禍に於いても、皆様に仏様の教えに出遇っていただきたい」との思いで始めたのが、この「オンライン参拝」です。

新たな試みは戸惑いの連続でしたが、「伝え方を変えるだけで、今まで届くことがなかった人に、仏様の教えを届けることができるかもしれない」と可能性を感じております。

例えば、今までは多くのご家庭が代表の方お一人でのご参拝であったのが、オンライン参拝では、離れて暮らすご家族も、それぞれの場所からお参りいただけるようになりました。

 

これまでは、多くの方が「同じ場所でお参りすることに意味がある」、そんな風に思われていたのかも知れません。

しかし、インターネットを介してお参りするからといって、お経の文言が変わる訳ではありません。

当然のことながら、一堂に会してお参りをしても、インターネットを介してお参りをしても、お聞かせいただく仏様のお心は何一つ 変わらないのです。

仏教の本質とも言える、大切なことに気付かされました。

   

仏教の真理、基本的な教えの一つに「諸行無常」があります。

全てのものは常に変化しているという意味です。

例えば、平成の約三〇年を振り返るだけでも、私達の生活は  大きく変わりました。

それを思えば、お参りする形も変化していく必要があるのかもしれません。

その一方で、どのような参拝方法になったとしても、いただく教えに変わりはありません。

だからこそ、仏教は廃れることなく、脈々と受け継がれてきたのでしょう。

仏様は「どんなあなたでも救い摂りたい」と願って下さっています。

そのお心と向き合うのに「同じ場所でお参り出来なければ意味がない」と条件をつけてしまうのは寂しいことです。

もちろん、「仲間と同じ場所に集い、お念仏の教えをいただく」ことに重きを置かれるお気持ちは尊いものです。

ですが、離れた場所でお参りしても、お念仏の教えをいただく仲間として繋がっていることは忘れないでいただきたいと思います。

  

全てのものは常に変化するという「諸行無常」の教えは、新しいことにチャレンジする大切さを教えてくれます。

新しく始めるということは、不安や恐怖・抵抗を伴います。その躊躇し葛藤する私の心の拠り所となるのが仏教です。

そのこと忘れずに、生きる 指針として大切にして、これからの激動の時代を生き抜いて参りましょう。

 

 

あなたは自分と向き合えていますか?

新型コロナウイルスに係る緊急事態宣言を受け、
私たちは外出の自粛などを余儀なくされました。

緊急事態宣言は解除されましたが、新しい生活様式の実践が求められ、
治療薬も未だ開発されておらず、やはり油断出来ない状況に変わりはありません。

私たちはこの出来事を機に自身の生命と向き合うということを迫られているように思います。

 

本願寺第八代宗主蓮如上人は浄土真宗のみ教えをやさしく伝えるために
「御文章(ごぶんしょう)」というお手紙を書いて下さいました。

そのうちの一通に「疫癘(えきれい)章」があります。

この御文章が書かれたのは室町時代のことです。

当時は現代のように医療も発達していません。

今よりも頻繁に疫病の類が流行っていたのではないかと推測します。

そのような状況において、蓮如上人はこのように示されています。

 

これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず

 

生まれはじめしよりして定まれる定業なり

 

私たちはこの生命を頂いた以上、いつかは生命を終えていく身です。

疫病によってはじめて死を迎えるのではないということです。

一方で蓮如上人はこの続きに
「私たちの生命は明日がわからない生命であると頭ではわかっているけれども、疫病で死去したように思ってしまう。
これもまた仕方のないことです」と併せて仰っています。

その上で、阿弥陀様は「どのような身であっても、私をたよりにする(頼る)者は必ず救う」
仰られていると示されています。

私たちは生命のことだけでなく、日常生活の中で不安になり、苦しみ、迷うことがあります。

阿弥陀様はそのような私を「必ず救い摂るぞ」と寄り添って下さっています。

仏法を通して我が身を振り返り、しっかり自分と向かい合うからこそ、
私の生命の問題を解決して下さる阿弥陀様のお心が有り難いことなのだと気付くことが出来るのです。

蓮如上人はこの御文章の最後に、そのような阿弥陀様のお心に触れて

  
「南無阿弥陀仏と申すのはありがたさ、

 
うれしさを申す御礼のこころであります」

 
と教えて下さいました。

 

阿弥陀様のお心は物体として目の前にある訳ではありません。

ですが、私たちの心が目に見えなくても存在しているのと同じく、
そのおはたらきは間違いなく存在するのです。

そのことをお忘れなきよう、しっかりと阿弥陀様と共に歩む人生、感謝申させていただく人生を歩ませていただきましょう。

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