仏事の心得仏事の心得

気付けない私に届いているもの

「スマホ依存症」という言葉があるくらい、今や私たちの生活に欠かせないスマートフォン。
かくいう私も、お世話になりっぱなしです。
ですから、調子が悪くなると狼狽えてしまいます。
そして、色々試しても直らないとイライラして、「もう知らない」「なんでこんなことになるの」などと、文句をこぼしてしまうのです。

普段は、その有難さに気づくこともなく、当然のように使い続けている。
それでいて、自分の思い通りにならなくなると、途端に冷たい態度をとってしまう。
我ながら、本当に都合のよい人間であり、同時に、恩知らずな人間であると思います。
この姿は、何もスマートフォンに対してだけではありません。
私たちは普段、「自分は正しい」という思いに囚われて生きています。
そして、自分の都合で物事を判断して、自らを振り返ることもなく、周りのお世話になり、多くのいのちに支えられていることになかなか思いが至りません。

 

『歎異抄(たんにしょう)』という書物の中で親鸞聖人の門弟、唯円は次のように記されています。

 

「まことに如来の御恩といふことをば沙汰なくして、われもひとも、よしあしということをのみ申しあへり。」

(本当に私たちは、如来の御恩ということを気にもかけず、ただお互いに善いとか悪いとかばかり言い合っております。)

 

私たちの心はいつも「自分を是とし、他の人を非」としています。
頑なにその心に執着しています。
それが「我執」です。

 

こんな私を見捨てることなく、どうにかして救い摂りたいと願われた仏さまが、阿弥陀様です。

私が立派だからではありません。「自分を是とし、他の人を非」とする心に頑なに執着する、煩悩だらけで、どうしようもない私たちだからこそ、見捨てることなくはたらき続けてくださっています。

そして、そのはたらきに出遇えたのは、私一人の力ではありません。

多くの方々が阿弥陀様のはたらきを慶ばれ、私にご縁を結んでくださったおかげで、今、この私にまで届けられているご縁です。

多くのご縁に感謝して、この度の永代経法要も、ご一緒にお参りさせていただければと思います。

この世の利益

「利益」という言葉を何と読まれるでしょうか。

おそらく、殆どの方は「りえき」と読まれるのだと思います。

ですが、「ご利益」と書いたらどうでしょうか。

今度は多くの方が「りやく」と読まれます。

 

「りえき」と読む時は「経済活動等によって得るもうけ」を意味します。

一方で「りやく」と読む時は、仏教においては「仏の教えに従うことによって得られる幸福・徳」を意味します。

 

世間一般で「ごりやく」と言えば、例えば試験に合格したい・病気を治してほしいといった、仏や神にお祈りしたりお願いすることで、自分の願っていることを叶えてもらう ことが「ご利益がある」と思われているようです。

私たちの願いの多くは自分の個人的な欲望です。

自分の都合を考えただけの個人的な欲望ばかりが叶えられたら、どうなるでしょうか。

決して、平和な世の中、幸福な人生が実現するとは思えません。

何故なら、私たちは多くの生命に支えられて生かされていて、私を生かしてくださる生命が幸せになることなしに私の幸せは成り立たないからです。

人間の欲望は無制限です。

その欲に応えるために宗教の利益は説かれているのではありません。

「すべての人びとを救おう」という願いが私たちの身の上に実現することが仏教の説く利益なのです。

 

仏教には宗派が様々ありますが、共通して言える究極の目的は「悟りを開くこと」です。

これだけを聞くと「仏教は死後のことであって、生きている今は関係ない」と思われるかもしれません。

しかし仏教は、今ここにあるこの身を一番の問題にしています。

ですから「あの世」に往ってはじまる教えではないのです。「仏説阿弥陀経」というお経には「今現在説法(こんげんざいせっぽう)」と説かれています。

「阿弥陀という仏様が、今現に私に向けて法を説いている」と教えてくださっています。

「この世でどうしても仏になることができない者をそのまま見捨てることができない」と、四十八の願いを建てられたのが阿弥陀様であり、「南無阿弥陀仏」のお念仏の教えです。

今、この瞬間も様々な縁となり、私に阿弥陀様の願いの中で共に生かされて生きている生命の真実を説法してくださっているのです。

様々な縁の一つとして私に届いているのが、先立たれた方の尊い生命です。

この度の永代経法要も全てのご縁に感謝してご一緒にお参りいたしましょう。

いつも あなたのそばに

日本最古の仏壇をご存知でしょうか。

それは飛鳥時代の「玉虫厨子(たまむしのずし)」です。

七世紀中頃、推古天皇が朝夕拝まれる念持仏として作られたとされています。

その後、685年3月27日、天武天皇が「諸国の家毎に仏舎を作り 即ち仏像と経を置き 礼拝供養せよ」と勅命を出されました。

それが仏壇普及のはじまりと言われ、3月27日は「仏壇の日」とされています。

ただし、当時の仏教は一部の人だけのもので、市井の人々の間で仏壇が普及するようになったのは江戸時代、幕府の寺請制度の政策がきっかけでした。

 

浄土真宗では、室町時代、本願寺の第八代宗主蓮如上人が「南無阿弥陀仏」の名号を下付されたことにより、

人々が仏様に手を合わせてお参りするという習慣が根付きました。

そして蓮如上人は「本尊は掛けやぶれ」と仰いました。

当時、御本尊(名号)を全ての家にご安置することは難しいことだったと思います。

恐らくは、講(人々が集まりお参りする会のこと)の際、その都度、御本尊を掛け直していくということを繰り返すため、

「掛けやぶれるほど、何度もお参りをしてください」という意味で仰ったのだと思います。

それは、仏様に手を合わせお参りすることの大切さを説かれたお言葉です。

 

浄土真宗における仏壇は、お寺の本堂を模したものとされています。

浄土真宗のお寺の本堂は仏説阿弥陀経に説かれる西方極楽浄土を表現するために金色を基調としています。

ご家庭での本堂がお仏壇ですので、浄土真宗では金仏壇が正式とされています。

また、「仏壇は家長などの誰かが受け継げば良い」という考え方をお持ちの方が少なくないようですが、

お参りをして仏様の教えを聞くということは、「一家の誰かが代表して行う」というものではありません。

それぞれが日々お参りをして、生活の中で感謝の思いと我が身を省みる場所として、お仏壇を構えていただくことが望ましいのです。

 

全ての方にとって、ご家庭のお仏壇という場所は、先立たれた方を偲ぶ中で、仏様を身近に感じる場所であってほしいと思います。

お子様がぬいぐるみや人形を友だちとして、いつもそばに置き、話しかけるように、

皆様にとっての仏様も、いつも傍にいて、ただ黙って私の話を聞き、寄り添ってくださる。

お仏壇・仏様は「特別な場所」ではなく「一番身近な場所」であってほしいと思います。

宗教は誰のもの?1

先日、ご質問をいただきました。

その内容が、多くの方に知っていただきたいものでしたので、この「仏事の心得」でも、ご紹介させていただきます。

それは、「信仰は何故大事なのですか?」というご質問に対してお話をするというものでした。

 

信仰とは、「信じ仰ぐ」ことです。

したがって、「仏教を信仰する」というのは、「私が、仏様の教えを信じ仰ぐ」ということです。

仏様の教えには、「この私」の在り方や心理を含む、この世の不変の真理が説かれています。

例えば、「死」に ついては、「諸行無常」という言葉で教えてくださっています。

「諸行」とは、あらゆる現象・事象ということで「無常」とは、常に変わらず在り続けるものは無いということです。

私たちは年を重ね「老い」を経験していますが、これも「諸行無常」なのです。

このように、日頃「これは仏様の教えです」と言われるまでもないようなことも、仏様は教えてくださっています。

それくらい、仏様の教えは、私たちの生活に深く根差しています。

仏様の教えに示される内容は不変の真理であるため、時に耳の痛いこと、鋭い指摘を受けることもあるかも知れません。

それでも逃れることの出来ないものです。

不変の真理と向き合い、自分はどのように生きていくのか。

心の持ち方や死への恐怖等、科学の力では解決出来ない不安や苦悩と向き合い、仏様の教えに問い続けながら歩む道が真実の宗教であると言えます。

仏様の教えは人生の道しるべとなってくれるものなのです。

仏様の教えは不変の真理でありますが、個々人の人生に落とし込んだ例話を聞かないと、どこか「他人事」のように聞いてしまうこともあるかも知れません。

しかし、決して「誰かのため」の教えではありません。

「私が仏様の教えを信じ仰ぐ」ということを忘れてはならないのです。

そして、その話しを聞く場所としてお寺は存在しています。

この度の永代経法要は総追悼法要であると同時に「教えを聞く場所が、代々に渡り存続するように」という願いと共にお参りをさせていただく法要です。

今一度「何故、お寺の本堂にお参りをすることが大切なのか?」ということを再確認していただき、限り有る大切な時間をご一緒に過ごさせていただきましょう。

世間虚仮 唯仏是真

春は別れと出会いの季節です。

親しい人との別れがある一方、新しい出会いもあります。

どちらが良いという訳ではないのですが、何となく「別れは悲しく、出会いは嬉しいもの」と

思われている方が多いのではないでしょうか。

私たちは物事を自分から見える一方向でしか捉えることが出来ません。

「人との別れ」について申せば、それは「別れ」という出来事ですが、

そこに「悲しい」「寂しい」という感情をくっつけてしまうのが、私たち人間です。

人間はどこまでも自らの思い中心にしか生きていけません。

その結果、自らの思いで自分自身を苦しめたり、「自分の考えが善、自分と異なるあの人の考えは悪」のような

判断をしてしまいがちです。

一方向からしか見ていないのに、全部見えていると思ってしまっているのが、私たちの偽ることのできない姿です。

仏教ではそれを「我(自分の都合・はからい)にとらわれている」「我執(がしゅう)」と言います。

 

さて、今年は親鸞聖人が「和国(わこく)の教主(きょうしゅ)」と讃(たた)えられ、日本に仏教を取り入れてくださった

聖徳太子の一四〇〇回忌に当たります。

聖徳太子は「世間(せけん)は虚仮(こけ)なり、唯(ただ)仏(ほとけ)   のみ是(こ)れ真(しん)なり」という言葉を残されています。

「この世にある物事はすべて仮のものであり、仏の教えのみが真実である」という意味です。

先程も申した通り、私たちの   物の見方は、自らの思いを中心とした一方向からのもので、真実と言えるようなものではありません。

例えば「老い」というもので申しますと、ある人は「情けないこと、目を背けたくなるもの」と、

マイナスの感情をつけることでしょう。

その一方で「人生を色濃く豊かにするもの」とプラスのイメージをつける方もいらっしゃるでしょう。

どちらも「老い」という現象に「私の感情をつけて捉えている」に過ぎず、その感情に振り回されてしまいがちです。

仏さまは「老い」ということも「諸行無常」、つまり、この世のものは絶え間なく変化しているものだと教えてくださっています。

「世間(せけん)は虚仮(こけ)なり、唯(ただ)仏(ほとけ)のみ是(こ)れ真(しん)なり」とは、真実を見ているつもりでも、

実は自分のはからいでしか世界(物事・他者の気持ち等)を見ることができない私たちだからこそ、

仏さまの教えを指針とせよというお示しであります。

 

私たちは、自分の感情、他人の意見に振り回されていると、つい自分を見失いがちです。

そのような中、「不変の在り方」を教えてくださる仏さまの教えほど、私たちの人生の道しるべとなるものはありません。

それを心の拠り所として、しっかりと生き抜く力を身に付けるためにも、

これからもご一緒に仏さまの教えを聴かせていただきましょう。

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