仏事の心得仏事の心得

色とりどりの命

毎年、立春を過ぎる頃から、梅や桜などの花木を皮切りに、次々と新しい命が芽吹きます。
境内を観察していると、花木の個性豊かさに驚かされることです。
ある木は黄緑色の新芽が息づく一方で、別の木は赤色の新芽が芽吹く。
枝も棘があるものもあれば、ないものもある。
花弁も色とりどりであり、葉も花もその形は異なります。
いただいたそれぞれの命を精一杯に力強く生き抜いているその様は、実に美しいものです。

 

私たちがお勤めするお経に「仏説阿弥陀経」というものがあります。
仏の国・お浄土の美しい有様や、そこに住む方の尊い姿が説かれる一節に、このような御文があります。

 

池中蓮華 大如車輪 青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光 微妙香潔

 

(池の中には車輪のように大きな蓮の花があって、青い花は青い光を黄色い花は黄色い光を赤い花は赤い光を白い花は白い光を放ち、いずれも美しくその香りは気高く清らかである)と、あります。

お浄土は、全体を一色に染め上げているのではなく、それぞれがそれぞれの色を持ち、光輝いている。
個性豊かに美しく輝きながら、平等に救われる境地であることが説かれています。
これは、お浄土に限られた話ではありません。

 

童謡詩人の金子みすゞさんが残された「私と小鳥と鈴と」という詩があります。
その最後には「みんなちがって、みんないい」とあります。
色とりどりの蓮の花がみな光を放っているように、あらゆる命はみな光輝き、平等に価値があることを教えてくださいます。
ここで大切なのは、命は決して一人で輝くことはできないということです。
数え切れないほど多くの命によって輝かせてもらっています。
命は支え合って輝いているのです。
そのような命の不思議の中を生かされている私たちに上も下もありません。

この度のお盆法要も、大切なことに気付かせてくださる阿弥陀様、そしてそのご縁となってくださる私たちの大切な方々に感謝の気持ちでお参りさせていただきましょう。

いつでも・どこでも・誰にでもの阿弥陀様

「西暦」とは、キリストが生まれた年を元年とした紀年法ですが、仏教にも「仏暦」という釈尊が入滅(にゅうめつ)した年、またはその翌年を元年とする紀年法があることをご存知でしょうか。

今年は仏暦二五六八年であり、東南アジア等の仏教圏で使用されているそうです。

その他に、仏教では釈尊入滅を基点とした「三時(さんじ)思想(しそう)」という、釈尊の教えが入滅後、 どのように伝わっていくのかを定めた歴史観もあります。

それが「正法(しょうぼう)・像法(ぞうほう)・末法(まっぽう)」と呼ばれる時代区分です。

正法とは、入滅後五百年までの時代を指します。教えと修行が正しく守られ、悟りを得る人が存在した時代です。

像法とは、入滅後千年が経過した  時代のことで、教えと修行は残りますが、悟りを得る人はいない時代です。

末法とは、入滅後千五百年が経過した時代で、教えだけが残り、修行も悟りを得る人も存在しない時代、と言われております。

 

 

現代はもちろん、約八五〇年前の親鸞聖人ご在世の当時も既に末法の時代でした。

親鸞聖人は二〇年間、悟りを得ようと厳しい修行に励まれましたが、悟りに至る道を見出すことができませんでした。

それ故に、末法の時代に自らの力で悟りを得ることは難しいと感じ、すべての人を必ず救い摂るという願いを建て、はたらき続けてくださる阿弥陀様の教えこそ、末法の時代に生きる者のために説かれたものだと味わっていかれたのです。

私たちは、時代の変化に流されて右往左往しやすいものです。

その一方で、阿弥陀様は時代の変化に左右されることなく、ただひたすらに「生きとし生けるものを救い摂りたいんだ」という一つの願いだけを持ち続け、時代を超えてはたらき続けてくださっています。

そのことに親鸞聖人は心を打たれたのでしょう。

そして、「いつでも」・「どこでも」・「誰にでも」はたらき続けてくださる阿弥陀様のたった一つの願いであり、その喚(よ)び声こそが「南無阿弥陀仏」のお念仏です。

普段、日常生活に忙殺され、お参りすることが二の次になりがちな方もいらっしゃるかもしれません。

そのような私たちに「お念仏申せ」と背中を押してくださるのが、先立たれた方々です。

この度のお盆法要も、大切な方々が私たちの背中を押してくださる尊いご縁です。先立たれた方々、阿弥陀様、親鸞聖人に感謝の気持ちとともにお参りさせていただきましょう。 

三毒の煩悩

六月二十日は東京正楽寺第二代住職の祥月命日です。

昭和二十年、第二次世界大戦の中、沖縄での戦死であったと聞いております。

旧盆の時期でもある八月十五日が終戦日ということもあり、
お盆法要の準備を始める六月頃から夏にかけては、普段以上に強く戦争を意識します。

終戦後の昭和二十六年、サンフランシスコ講和条約が締結されました。

これは、日本政府が連合国四十八カ国と戦争状態を終わらせるために締結した講和条約です。

その際、セイロン(現在のスリランカ)は、日本に対する損害賠償請求権を自発的に放棄し、大きな反響を呼びました。

そして、放棄の理由として挙げられたのが

「怨みは怨みによって鎮まらない 怨みを忘れて はじめて怨みは鎮まる」(法句経)

という、お釈迦様のお言葉でした。

 

「喜怒哀楽」という言葉があるように、私たちには様々な感情があります。

日常生活を送る中で、怒りや憎しみ、怨みに心が囚われることがあります。

仏教では、その心を「瞋恚(しんに)」と言います。

また、むさぼり・求める心を「貪欲(とんよく)」、

愚かで真理を知らないことを「愚痴(ぐち)」と言います。

これら三つは人間の根本的な煩悩として「三毒(さんどく)の煩悩(ぼんのう)呼ばれております。

 

私たちは常に「あれがほしい」「こうなりたい」等の求める心が尽きません。

そして、思い通りにならないと

「なぜ、こうならないんだ」「どうして、ああしてくれないのか」等と腹を立て、怒り・憎しみ・怨みへとなります。

それらの感情が起こるのは、「私の思い通りにしたい」と、目先のことに囚われて、
因果の道理等の真理を知ろうとしない、愚かな心があるからなのです。

私たちの感情や長年積み重ねてきた考え方を手放すということは、容易なことではありません。

ですが、我が身を振り返り、自分の行動パターンや傾向を知り、一度立ち止まってみることはできると思うのです。

 

この度は、お盆法要のご縁です。

昔から、浄土真宗ではお盆法要(盂蘭盆会(うらぼんえ))のことを「歓喜会(かんぎえ)」と呼び、

仏様の教えを喜んでいただく機会として、大切にされてきました。

先立たれた方々を偲ぶ中で仏様の教えに触れ、改めて我が身を省みる時間として、ご一緒にお参りさせていただきましょう。

健康に生きる~心の健康~

「健康=身体のこと」という認識を持っている方は多いでしょう。

しかし、WHOにおける健康の定義は「身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態であり、

単に疾病のない状態や病弱でないことではない」とされています。

つまり、身体のこと以外に「心の健康(精神的)」と「社会の中に自分の居場所があること(社会的)」を含め健康と定めています。

健康へのアプローチは様々ですが、「今ここにいる私のため」の教えである仏教を聞き続けることは、

心を育み、心を良好(健康)な状態に保つことにつながると思います。

 

浄土真宗では、阿弥陀様の教えを喜ばれ、報恩感謝の人生を送られた人を「妙好人(みょうこうにん)」と呼びます。

その一人に「因幡の源左(いなばのげんさ)」という方がいらっしゃいました。

源左は十八歳の時に父親を亡くしました。

その父親の遺言が「おらが死んで淋しけりゃ、親をさがして、親にすがれ」というものでした。

浄土真宗では、私が頼む前から、「我にまかせよ、必ず救う」と慈しみお育てくださる阿弥陀様を「親様」と仰ぎます。

「親をさがして、親にすがれ」というのは、阿弥陀様を頼れということですが、源左にはその意味が分かりませんでした。

しかし、阿弥陀様の教えを聞き続ける中で、次第に、あらゆる出来事には、阿弥陀様のお手まわしが行き届いていると感じ取る、

豊かな心を育んでいったのです。

 

そんな源左の有名なエピソードがあります。

ある夏、夕立にあってずぶ濡れになり帰ってきた源左を見た人が「よう濡れたのう」と声をかけると、

源左は「鼻が下に向いとるで、有難いぞなぁ」と言いました。

「この鼻が上向きについておれば、雨はみな鼻の穴に入ってしまうが、

下向きについてくださるおかげで、息がつまらず苦にならん、

親様は何でもええやぁにしてくださるで、何で小言がいわれようかいなぁ」と喜ばれたそうです。

 

頭では分かっていても、実際に心底実感できる人はどれほどにいるでしょうか。

当たり前が当たり前でないと気付けると、感謝とお陰さまの世界に出遇うことができます。

それは、心を育むということでしょう。

源左もすぐに、この境地に至ったわけではありません。

長い時間「親をさがして、すがるとは、どういうことか」と聞き続けた先に開けた世界であります。

この源左の姿勢から、人生の問いは一生をかけて問い続けなくてはならないことを教えられます。

今回は「心の健康」を中心に書かせていただきましたが、次回はもう一つの「社会的健康」をテーマに書かせていただきます。

宗教は誰のもの?2

前回の仏事の心得では「仏様の教えは、私が信じ仰ぐもの」ということを書きました。

仏様の教えをどのように受け取り、信じ仰ぐかによって立場が別れてきます。

それ故に、私たちの浄土真宗以外にも「宗派」と呼ばれるものが、いくつも存在します。

 

浄土真宗の教えをいただく人たちは、「他力本願」という言葉を大切にしてきました。

一般的には「自分で努力をしないで他人の力を当てにする」という意味で使われることが多いようですが、

これは本来の意味ではありません。

「他力」とは、他人の力ではなく、仏様の力。

阿弥陀様の私たちを救わずにはおれないという願いのはたらき、これが「他力本願」なのです。

しかし、この阿弥陀様の救い、仏様の救いに対する疑いの心が「私が信じ仰ぐもの」として受け容れられない、

「宗教を信じることが出来ない」という現代の宗教離れの一因になっているように思います。

 

仏様がはたらいてくださる様子が、人間が動くのと同様に目に見えないものだから、

信じ難い、怪しい、というものです。

しかし、目には見えなくても確かに存在するものはあります。

優しさや悲しみのような人の気持ちは目に見えず、科学的に証明出来ませんが、確かに存在します。

 

私たちは「死」という不変の真理から逃れることは出来ません。

しかし、死後の世界の ことは分からなくて、不安や恐怖を抱きますので、

目を反らし、自分のことではないと横に置いてしまいます。

しかし、横に置いたからといって、「死」から逃れられることは出来ません。

「いつ死ぬかも分からない私の生命」だからこそ、阿弥陀様の願いを知り、自分の生命の在り方を問う。

その姿勢は、精一杯に生きる糧となります。

さらに、生きている今、我が身を振り返り、聞かせていただくからこそ、

自分の至らなさ、愚かさに気付くことが出来ます。

そして、同時に「生命終えた後、必ずあなたを浄土に救い摂る」と誓い、

はたらき続けてくださる阿弥陀様の有難さに気付くことが出来るのです。

 

本来であれば、日頃からそうありたいのですが、悲しいかな、中々出来ない私たちです。

そのような私たちに自分の生命、阿弥陀様の願いと向き合うご縁を結んでくださるのが先立たれた方々です。

また、阿弥陀様に出遇い、そのはたらきをよろこんでいる人の姿を通して、

私が阿弥陀様のはたらきを知らされるということもあると思います。

この度のお盆法要も、浄土真宗の教えをいただく仲間と共に、先人たちを偲び感謝して、 

私が信じ仰ぐ話を聞かせていただく時間を過ごしましょう。

1 / 3123
ページ上部へ