仏事の心得仏事の心得

命終える日がぼんやり見えてきた今

癌と云う命をかける病を頂いて思うことは、お釈迦様のお言葉が間違いないとの思い。「生・老・病・死」
老いは間違いなく身に添ってきます。気が付けば老いの中に身を置いて、こんはずじゃなかったとの思いばかり。
も間違いなくわが身を包み込んできます。住職自身、まさか自分の身が癌に侵されるとは夢にも思いませんでした。
も間違いなく私が体験をしなくてはならないこと。 ただ、その日がいつか解らない不安がありますが・・・。
とは仏法を聴聞させて頂いて初めて感じられる新しい世界。
人間界に命頂く事も大変有り難いご縁ですが、お念仏の教えに出遇って、お浄土に生まれ変わっていく、有り難くも尊いご縁を
あらためて知らせて頂きました。

日本人は相変わらず「人ごと」の世界から抜け出せずに、自分には関係ない世界との思いだけで生きています。そんな私達を、阿弥陀様は心配で心配で、じっとしていられないのです。立ち上がって、私のそばに寄り添いながら涙を流し、私の行くべき道を 指し示してくださいます。しかし、悲しいかな凡夫の私は気が付かず、気にも掛けずに迷いの道を歩き続けます。如来様には大変申し訳ありませんが、住職も同じ思いで涙を流しています。

浄土真宗の仏事の常識は・・・?

以前からお話ししていることと思いますが、世間一般の仏事の常識は「浄土真宗においては仏事の非常識」だと云っても過言ではありません。
それくらい浄土真宗は他の宗派と考え方に・教えに違いがあります。
ご門徒の方とお話ししていると、浄土真宗の門徒の方が何故こんな事を言うのだろうと思うことが沢山ありますので、再度書かせて頂きます。
これまで人生の中で培ってきた「仏事の常識」を一度忘れて下さい。そうしないと浄土真宗になじめません。門徒式章をかけて仏事の席に参らせて頂く資格のないお念仏を称えられない「名ばかりの門徒」になってしまいます。

 

例えば、ほんの数例をあげると

 

浄土真宗では亡くなった方のためにお経を読む事はありません。
浄土真宗では追善供養を致しません。追善供養と云う言葉もありません。
浄土真宗では法事が「命日より遅くなってはいけない」などと云いません。
浄土真宗ではお仏壇に「お茶もお水も」供えません。
浄土真宗では「お線香を立てません」「お焼香は一度だけ」
浄土真宗では「日の善し悪し・方角が良い悪い」などとは云いません。縁起が悪いなどとは絶対言いません。
浄土真宗の仏事は全て生きている貴方のためにあります。等々、数え上げたらキリがないかもしれません。故に今まで培ってきた仏事の常識を一度忘れて下さい。頭をからっぽにして下さい。そうしなければ門徒(念仏者)になれません。判らない事は放置せず住職に尋ねてください。

門徒式章忘れていませんか?

約十年前になりますでしょうか、本堂耐震工事等で、ご寄付頂いた方々へのお扱いとして「門徒式章」を配布させて頂きました。
「門徒式章」とは、式章を身につける私は「南無阿弥陀仏のご縁を頂き、念仏者として生活をしていきます」と云う浄土真宗の門徒としての証です。お他宗にも名前は分かりませんが同じような物があり、身に付けている方を拝見することがあります。お見受けする方の人品は、さもありなんと思える方々が圧倒的に多いように思います。お他宗での扱いはよく解りませんが、当流では浄土真宗の門徒の証として式章を用います。念仏者として人生を歩んでいく人が身につけるべきものだと思います。

以前式章をお渡しした時には、お寺の法要に年回法要にお参りされる時に必ずご使用下さっていたのですが、最近はお寺の法要以外で式章をされる方が少なくなっています。のど元過ぎれば熱さ忘れるの言葉どおり、門徒式章の扱いも年数を経てくると忘れられてしまうようです。悲しいことです。いまだに式章を逆さまにかけて下さる方さえいます。何度口を酸っぱくして申しあげた事か・・・。

この度の慶讃法要にて新しい門徒式章を作製し、特別懇志のお扱い(記念品)として皆様にお渡し致します。浄土真宗の門徒としてお念仏の中に生かされていると思ってくださる方には是非お使い頂きたいと思います。門徒式章は親鸞聖人のお伝え下さったお念仏のみ教えを聴聞させて頂くことのできる方が身につけるべきものです。浄土真宗の門徒としての誇りを胸に共々にお聴聞させて頂きましょう。

早すぎるって何が?どうして?

昨年十二月五日に歌舞伎の中村勘三郎氏が五十七歳で命を終えていきました。弔問客や報道各社は異口同音に「早すぎる死」と表現したようです。何が早すぎるのか不思議でなりません。
逆に何歳になれば早くない年齢といえるのでしょうか?
確かに日本は長生きの国になりました。しかし、誰もが必ず長生き出来るわけではありません。たまたま長生きの方がいて下さるだけのこと。自分も長生きできると勝手に勘違いをしているのが日本人なのです。自分も家族も勝手な思いこみの中で生活をしています。そして命の終わりを迎えたときにあわてふためくのです。
この文章を読まれた方は、もしかしたら新年早々死の話しなんて縁起でもないと思われるかもしれません。縁起が良い悪いとは何でしょうか?そもそも「縁起」とは、あらゆるものは直接・間接の諸条件によって生ずると云う意味です。別の表現に「この寺の縁起は」つまり、どう成り立ってどんな歴史があるのかといった使い方をします。ものの興りや歴史が何故、縁起が良い悪いと云う表現になるのでしょうか?つまり日本人はそれほどいい加減なものの解釈しかしていないのです。死を迎えるのに早いも遅いもありません。それぞれが頂いてきた寿命を終えていく日がやってきただけです。「老少不定」に何故気付けないのでしょうか?
仏教が、お寺が、死んでから必要なものと大きな勘違いをしている人ばかりだからでしょう!  十二月の伝道掲示板の言葉に「仏教は死の準備ではなく、生の糧である」とあります。日常生活の中に仏教・お寺と向き合っていく姿勢を培う事が大切な事なのです。早く気づいて下さい。まだ間に合うかもしれません!

お彼岸のお参り

お彼岸のお参りに伺ったお宅の中で気になったことがあります。
それは、お仏壇に湯呑やコップを使ってお水を供えている方が、いまだにいらっしゃったことです。再三、住職が仏事の心得に書いていると思います。
ある雑誌の仏事に関する記事には「仏様が飲めるように、茶湯器の蓋は取って供えます…」ともあったようです。
このように水を供えるのは「仏様や亡くなった方の、喉を潤すため」とお考えの方が多いのではないでしょうか。
しかしながら、亡くなった方々が往生された阿弥陀様のお浄土には「八功徳水(はっくどくすい)」という“八つの功徳のある”(甘味・冷たい・軟らかい・かろやか・浄らか・無臭・のどにまろやか・お腹をこわさない)水がふんだんにたたえられた池があり、わざわざ私たちが消毒した水を供える必要はないわけです。このことは「阿弥陀経」というお経の中にも説かれており、この上もなく清浄で、美しい八つの徳を持つ水に恵まれた国土であると説明されています。細かく云えば、仏様の世界においでになる方々は「喉の渇きを感じることなど あり得ないのです。」
さらに、こうした「喉の渇きを潤すため」という行為は追善の意味合いが濃く、阿弥陀様のお心には添いません。ですから浄土真宗では、湯呑やコップを使って「仏様や亡くなられた方々に飲んでいただく」ような水の供え方はしないのです。とは言っても、「お水そのものがいけない」というわけではありません。

 浄土真宗では華瓶(けびょう)という小さな一対の花入れの仏具を用いて、そこに水を入れ、樒または青木(色花は用いない)をお供えします。仏事には一定の作法があり、ご飯をお供えするのにお茶碗ではなく仏飯器を用いるようにお水を供えるには華瓶を用いるのです。樒や青木を入れるのは香木だからで、つまり香水にしてお供えさせていただくのです。阿弥陀様のめぐみを浄らかな香水にして供えるところに、敬いと感謝の心が込められていると言えます。なお、華瓶がなければ敢えて水を供える必要はなく、湯呑やコップで水は絶対に供えません。詳しい仏壇の荘厳の仕方はお寺からお配りしている聖典の後ろの方に記載されています。ぜひ、一度ご自分のお飾りの仕方(荘厳)が間違っていないか、確認してみて下さい。
今回は副住職の娘がお彼岸詣りで気がついたこと・気になったことを書かせて頂きました。(添削は住職です)   結局、再三住職が書かせて頂いていることが、活かされていないと云うことになります。結局、何度書いても読んで下さらない方は、読んで下さらないと云う事でしょう。
三つ付いている蝋燭立てや香炉の足も未だに二つが前にきているお宅が何軒もあります。本当に情けないことです。
「継続は力なり」と云う言葉がありますが、何回同じ事を書けば気付き、直して下さるのでしょうか?

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