仏事の心得

命終える日がぼんやり見えてきた今

癌と云う命をかける病を頂いて思うことは、お釈迦様のお言葉が間違いないとの思い。「生・老・病・死」
老いは間違いなく身に添ってきます。気が付けば老いの中に身を置いて、こんはずじゃなかったとの思いばかり。
も間違いなくわが身を包み込んできます。住職自身、まさか自分の身が癌に侵されるとは夢にも思いませんでした。
も間違いなく私が体験をしなくてはならないこと。 ただ、その日がいつか解らない不安がありますが・・・。
とは仏法を聴聞させて頂いて初めて感じられる新しい世界。
人間界に命頂く事も大変有り難いご縁ですが、お念仏の教えに出遇って、お浄土に生まれ変わっていく、有り難くも尊いご縁を
あらためて知らせて頂きました。

日本人は相変わらず「人ごと」の世界から抜け出せずに、自分には関係ない世界との思いだけで生きています。そんな私達を、阿弥陀様は心配で心配で、じっとしていられないのです。立ち上がって、私のそばに寄り添いながら涙を流し、私の行くべき道を 指し示してくださいます。しかし、悲しいかな凡夫の私は気が付かず、気にも掛けずに迷いの道を歩き続けます。如来様には大変申し訳ありませんが、住職も同じ思いで涙を流しています。

お彼岸のお参り

お彼岸のお参りに伺ったお宅の中で気になったことがあります。
それは、お仏壇に湯呑やコップを使ってお水を供えている方が、いまだにいらっしゃったことです。再三、住職が仏事の心得に書いていると思います。
ある雑誌の仏事に関する記事には「仏様が飲めるように、茶湯器の蓋は取って供えます…」ともあったようです。
このように水を供えるのは「仏様や亡くなった方の、喉を潤すため」とお考えの方が多いのではないでしょうか。
しかしながら、亡くなった方々が往生された阿弥陀様のお浄土には「八功徳水(はっくどくすい)」という“八つの功徳のある”(甘味・冷たい・軟らかい・かろやか・浄らか・無臭・のどにまろやか・お腹をこわさない)水がふんだんにたたえられた池があり、わざわざ私たちが消毒した水を供える必要はないわけです。このことは「阿弥陀経」というお経の中にも説かれており、この上もなく清浄で、美しい八つの徳を持つ水に恵まれた国土であると説明されています。細かく云えば、仏様の世界においでになる方々は「喉の渇きを感じることなど あり得ないのです。」
さらに、こうした「喉の渇きを潤すため」という行為は追善の意味合いが濃く、阿弥陀様のお心には添いません。ですから浄土真宗では、湯呑やコップを使って「仏様や亡くなられた方々に飲んでいただく」ような水の供え方はしないのです。とは言っても、「お水そのものがいけない」というわけではありません。

 浄土真宗では華瓶(けびょう)という小さな一対の花入れの仏具を用いて、そこに水を入れ、樒または青木(色花は用いない)をお供えします。仏事には一定の作法があり、ご飯をお供えするのにお茶碗ではなく仏飯器を用いるようにお水を供えるには華瓶を用いるのです。樒や青木を入れるのは香木だからで、つまり香水にしてお供えさせていただくのです。阿弥陀様のめぐみを浄らかな香水にして供えるところに、敬いと感謝の心が込められていると言えます。なお、華瓶がなければ敢えて水を供える必要はなく、湯呑やコップで水は絶対に供えません。詳しい仏壇の荘厳の仕方はお寺からお配りしている聖典の後ろの方に記載されています。ぜひ、一度ご自分のお飾りの仕方(荘厳)が間違っていないか、確認してみて下さい。
今回は副住職の娘がお彼岸詣りで気がついたこと・気になったことを書かせて頂きました。(添削は住職です)   結局、再三住職が書かせて頂いていることが、活かされていないと云うことになります。結局、何度書いても読んで下さらない方は、読んで下さらないと云う事でしょう。
三つ付いている蝋燭立てや香炉の足も未だに二つが前にきているお宅が何軒もあります。本当に情けないことです。
「継続は力なり」と云う言葉がありますが、何回同じ事を書けば気付き、直して下さるのでしょうか?

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