仏事の心得

少欲知足

コロナ禍の影響で外出を控えるようになった昨今、インターネット上で物品を購入するオンラインショッピングが主流となりました。

オンラインショッピングでは、インターネット上に表示された商品をその場で現金を払わずに気軽に購入できますので、
気付いたら買い過ぎた…と後悔した経験のある方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 

仏教の言葉に「少欲(しょうよくちそく)というものがあります。

意味は「まだ得られていないものを欲しない、欲を抑え、既に得ているものに満足することで心が穏やかになる」というものです。

この少欲知足の精神は大切なものですが、私たちの実態はどうでしょうか。 

買い物に限らず、「あれが欲しい、こうしたい」と際限なく欲が湧いてきます。

実際は 欲という名の煩悩を抑えることが出来ない私たちです。

「煩悩を抑えることの出来ない私」に気付くと、「自分はダメな人間だ」と悩み苦しむ。

場合によっては、「仕方がないことだ」と開き直ることがあるかも知れません。

そのいずれの状態の私であっても、
「煩悩を取り除けないあなたのために私がいるのですよ」と呼びかけて下さるのが阿弥陀様です。

「煩悩を抑えることの出来ない私」に対して、「そんなあなたでも良いんだよ」と認め、受け容れて下さる阿弥陀様の存在は、どれほどに安心が出来、心強いものでしょうか。

その一方で、阿弥陀様の「そのままで大丈夫」というお心にあぐらをかき、開き直って、欲望の赴くままに生きる、というのは、
人として違うように思います。

そのような生き方を続けていくと、どこかで後悔することになるでしょう。

 

私たちにとって大切なことは「出来ないからダメ」で終わるのではなく、「出来ない私」に気付いた今、
どういう目標を持って、どう行動するかということです。

仏様の教えをいただくということは、常に自分を映して下さる鏡を持つようなものです。

私たちはそれによって自分の姿を知らされるのであります。

仏様の教えを聞き、「至らない自分」を知るからこそ、立ち止まることが出来ます。

立ち止まるからこそ、周りを見渡し、今の自分を見直すことが出来るのです。

阿弥陀様は「あらゆる者を救い摂りたい」という願い(本願)を立ててくださいました。

自らをコントロールすることが難しく、煩悩から離れることの出来ない無力な私たちを認め、受け容れて下さる阿弥陀様は、

ただただ有難い存在であり、その願い(教え)を信じ、生きるご縁をいただいている私たちは本当に恵まれているのです。

 

では、その阿弥陀様と出遇えたのは何故か。

それは親鸞聖人が比叡山延暦寺で、煩悩を取り除くための厳しいご修行をされた結果、
「煩悩は取り除けない」ことに気付かれたからです。

そこから阿弥陀様の教えと出遇われました。

「この素晴らしい教えを人々に伝えたい」と、幾度の苦難を乗り越えて、伝え続けて下さったからです。

この度は、その親鸞聖人のご遺徳を偲び感謝申させていただく御命日法要「報恩講」です。

ぜひ、ご一緒にお礼のお参りをさせていただきましょう。

ページ上部へ