仏事の心得仏事の心得

仏法の水に我が身を浸す

新しい年を迎えました。

昨年も有縁の皆様とご一緒に、葬儀や法事といったお参りの時間を持たせていただいたことです。

老若男女、様々な方を偲ぶご仏事のご縁を頂戴いたしましたが、
その度に「私たちの生命は時間に限りのあるもの、いつどこでどうなるか分からない生命をいただいている」と、
住職自身が教えていただいたことでした。

 

「新年は祝うもの」というのが一般的な考え方でしょう。

その理由の一つに、元々「年取りの祝い」というものがあったそうです。

かつては、正月が来る度に、皆一斉に年を取る「数え歳」で年齢を数えていたためです。

一般的に「年齢を重ねることは嬉しいことではない。」と言われる方が多いようです。

しかし、個人的に思うことは「いつまで生命が在るかわからないにもかかわらず、
今日までこの生命が続いてきたことは、すごいこと。
むしろ、年齢を重ねる方が、有難く、喜ばしいことなのではないか。」ということです。

 

私がこのように思えるようになったのは、仏様の教えてくださる不変の真理、

先立たれた方々が生命をかけて教えてくださったことを聞き続けてきたからです。

 

本願寺第八代宗主(しゅうしゅ)蓮如上人(れんにょしょうにん)の語録を集めた
『蓮如上人御一代記聞書(れんにょしょうにんごいちだいきききがき)』
という本の中に次のようなお話があります。

 

ある人が
「私の心はまるで(目の粗い)籠に水を入れるようなもので、ご法座を聞くお座敷では、ありがたい、尊いと思うのですが、
その場を離れると、たちまち元の心に戻ってしまいます。」
と打ち明けられました。

 

すると蓮如上人は
その籠を水の中につけなさい。我が身を仏法(教え)の水の中にひたしておけばよいのです。
と仰せになったということです。

 

仏様の教えを聞き続ける中で、いつも仏様や先立たれた方々に寄り添われている我が身であることに気付かされ、
仏様の教えを心の拠り所・生きる糧としようと心がけることは大切なことです。

しかし、私たちの 心はコロコロと移ろいやすいものです。

だからこそ、「仏法の水の中に籠をひたす」つまり「教えを聞き続ける環境に身を置く」ことを蓮如上人はおすすめくださるのでしょう。

 

仏様の教えを聞き続けることで、新たな発見、腑に落ちることがあるというのは、

新しい世界が開けるようで、有難く、嬉しいものです。

その積み重ねが心を育み、心が満たされ、仏様の教えが心の拠り所・生きる糧となっていきます。

今年も「仏法」という水の中に、「私」という籠を浸せるよう、ご一緒にお参りし続ける一年にしましょう。

いくつになるぞ 念仏申さるべし

正楽寺では先代住職の頃より、新年最初の行事として、お正月に「初参り」を勤めております。

「初参り」は、ご門徒様から「他宗の寺社仏閣へ初詣に行ってきた」というお話をお聞きしたことがきっかけとなって始まった行事です。

  

本願寺第八代宗主(しゅうしゅ)、蓮如上人(れんにょしょうにん)の言葉を集めた

『蓮如上人御一代記聞書(れんにょしょうにんごいちだいききがき)』という本の中に、次のような話が記されています。

  

明応二(一四九三)年正月のことです。

日頃より蓮如上人の元で浄土真宗の教えを聞かれていた道徳(どうとく)が蓮如上人へ新年の挨拶に伺いました。

新年の挨拶をする道徳に対して

道徳はいくつになるぞ。道徳念仏申さるべし。

と、型通りの挨拶はよいから、念仏申せとお諭しになられたというものです。

 

元旦は「特別な日」に感じますが、私たちが仏様の教えを聞く中で、我が身の至らなさを知り、

その上で、至らない私を救ってくださる阿弥陀様に報恩感謝の念仏を申させていただくことに「特別な日」など存在いたしません。

 

同本には、蓮如上人の別の言葉として

仏法には明日と申すことあるまじく候ふ。

仏法のことはいそげいそげと仰せられ候ふなり。

とも、記されています。

 

俳人の松尾芭蕉は

平生(へいぜい)すなわち辞世(じせい)なり

という言葉を残しています。

一句一句全てを辞世の句のつもりで詠んだ、というものです。

私たちは明日があると思うと、今日という日をおろそかにしてしまいます。

「後でいいや」という先送りの心が生まれてくるのです。

しかし、私たちの生命に明日はありません。

皆、明日の生命の保証などない身なのです。

決して他宗の寺社仏閣に参拝することを禁止するということではありません。

ですが、新年最初に「今年もよろしくお願いします」と、ご挨拶させていただく仏様は阿弥陀様であっていただきたいと思います。

「一年の計は元旦にあり」と申します。

なぜ、私たちは日々お参りさせていただくのか。

なぜ、仏様の話を聞き続ける必要があるのか。

改めてその意味を噛み締めていただき、今年もご一緒に感謝のお参りをさせていただきましょう。

生命と向き合う お正月

お盆・お彼岸に並び、正月はお墓の問い合わせが多い時期だとお聞きしました。

その理由を考えてみますと、正月は普段離れて暮らしている家族、親戚一同が集まる機会です。

その中で、親世代は子ども・孫世代の成長を喜ぶ中に自らの老い・「死」を実感し、

子ども世代は親世代の姿を目の当たりにして、老い・「死」について考えさせられるのでしょう。

そうして、自然と皆が私の生命の行き先を意識するのではないかと推測します。

 

「いつかはこの生命を終える最期の瞬間を迎えなくてはならない」ということは、誰もが頭では理解をしています。

しかしながら、頭の中でわかっていても、自らの「死」、大切な家族の「死」を簡単には受け入れられないものです。

お墓を探す、葬儀について考える、財産分与等を決める、いわゆる「終活」と呼ばれるものは、

自分が亡くなった後のことを考えるものですから、自分の希望を家族に伝えて安心する方もいらっしゃれば、

改めて自分の「死」というものについて考えさせられて不安になり、暗い気持ちになる方もいらっしゃるかも知れません。

ただ、それだけではなく、終活をすることにより、「死」を通して「生」を意識することが出来るという一面もあります。

 

普段から生命をいただいている尊さに気付ければ良いのですが、なかなかそれが出来ない私たちです。

「何でも在ることが当たり前」の生活を送り、その有り難さに気付けない私の姿がそこにはあります。

そのような私が、「死」と向き合うことで初めて、「生」の尊さに気付かされる。

 

 

「死」と向き合うとは、「生」と向き合うことなのです。

 

 

仏教では、「死もまた我らなり」と説かれます。

この生命をいただいた以上、いつかは生命を終えなくてはなりません。

それが、今日なのか明日なのか、分からないのが、私たちがいただいている生命です。

「生」と「死」は分けていけるものではなく、両方合わせて「私たちの生命」なのです。

「死」という自然なことから目を逸らし、「生」が見えづらい今だからこそ、

大切なことを教えて下さっている仏様のみ教えにしっかりと耳を傾け、受け止めていただきたいと思うことです。

 

時間に限りのある生命、誰とも替えの効かないたった一つの生命とご自身がしっかりと向き合い、

今年もご一緒にお参りをさせていただきたく存じます。

「願い」の中に生きる

年末年始になりますと、神社仏閣への初詣の光景をよく見かけます。

皆さんはお寺の本堂で、ご自宅のお仏壇で、阿弥陀様の前で手を合わせる時に何を思われていますか?

何かをお願いする方、感謝の気持ちを伝えられる方、ただ言われたから、と手を合わせる方と
様々な方がいらっしゃることでしょう。

浄土真宗では「病気が治りますように」とか「お金持ちになりますように」などと
阿弥陀様にお願いをする、いわゆる「祈る」という考え方はありません。

私の側から願って救われるのではなく、
私が願うに先立って、「悩み苦しむ全てのものを救いたい」とはたらき続けてくださるのが、阿弥陀様という仏様です。

その阿弥陀様のお心を聞かせていただくのが私たちが今、ご縁をいただいている浄土真宗です。

ですから、祈る必要がない教えなのです。

  

我が身の在り方、いのちの真実を聞かせていただくことが本来の仏教です。

決して自分勝手な願いを叶えるものではありません。

しかし、煩悩に染まっている私たちは「ああなりたい」「これが欲しい」などと、ついお願いをしてしまいます。

お願いをする行為の根底には、現状への不平不満があると言えます。

ですが、その前によくよくご自身を振り返ってみてください。

自分の身の回りを見渡したときにどれだけのものが「在る」のかということを。

家族が居る、仕事がある、そして何よりも生きているこの生命が在る。

私たちは自身の大切なものを「当たり前のもの」として、感謝せずに見過ごしていることがとても多いです。

阿弥陀様のお心を聞かせていただくとき、そのような私たちの姿を気付かせていただくと共に、
今まで当たり前と思っていたことが有り難いと思える視点を恵まれ、
どんな状況の中にあっても力強く生きるお念仏の人生を歩ませていただくのです。

もちろん、自分の人生を生きるために、理想を思い描くことは悪いことではありません。

ですが、それは神仏にお願いするのではなく、自身の目標として立てるべきものです。

「一年の計は元旦にあり」と申します。

感謝の気持ちとともに阿弥陀様に新年のご挨拶をさせていただき、新年の目標を立てられることが良いでしょう。

浄土真宗の門徒とは

浄土真宗ではいわゆる「檀家」という言葉を使いません。

親鸞聖人を宗祖と仰ぎ、阿弥陀様によって信心をめぐまれ、念仏の生活にいそしむ人を「門徒」と呼びます。

元々は親鸞聖人のお聖教(書物)の中に出てくる言葉で、門徒とは「一輩」という意味です。

つまりは、「同じ宗門の仲間」、「阿弥陀様の救い、お念仏に遇わせていただく浄土真宗の信者」のことでありますが、

より厳密に言うと、所定の手続きを経て各寺院備付の門徒台帳に登録され、維持費を負担している人を門徒と呼んでいます。

 

親鸞聖人は同じお念仏の教えをいただく仲間のことを、「御同朋(おんどうぼう)御同行(おんどうぎょう)」と敬い、共に歩まれました。

つまり、老若男女問わず、門徒も僧侶も、あらゆる違いを越えて一切が平等であり、仲間であり、友であると仰られています。

それは「みんないのちの仲間なんだよ、仏の子なんだよ」と教えてくださっているのです。

私たちはいつの日か、この世の生命を終えていかなくてはなりません。

「生は偶然、死は必然」という言葉がありますが、私たちはいつの間にか「生は必然、死は偶然」のような錯覚に陥っています。

生きていることが「あたりまえ」になっています。

生命のことだけではありませんが、「あたりまえ」のことには中々感謝できません。

生きていてあたりまえ、家族が居てあたりまえ、ご飯が食べられてあたりまえ…。

あたりまえの事など本当は何一つ無いのに、全てがあって「あたりまえ」と、無意識のうちに思い込んでいるのが私たち人間です。

 

では、そのことにいつ気付けるのでしょうか。

その大切な機会がお寺の本堂で、お仏壇の前で、手を合わせ、お話を聴かせていただく時なのです。

その中で阿弥陀様のお育てにあずかる。

「南無阿弥陀仏」とお念仏申す仏の子に育てていただくのです。

そして、それは生命をいただいている「今」しかありません。

どうか気付かせてもらえる有難さに出遇う機会を大切に、新しい一年を過ごさせていただきましょう。

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