仏事の心得

そのまま聞くことの難しさ

十数年前からお経の読み方や儀礼作法の講義を持つ機会をいただいています。
学生時代は学ぶ立場だった私が、教える立場になって痛感していることは、「教える」のではなく「私も学ばせていただいている」ということです。
「どうしたら分かりやすく伝えられるだろう」ということは、今でも行錯誤の連続です。

「学ぶ」の語源は「真似ぶ」と言われておりますが、特に真似て覚えることに重きを置く、お経の読み方や作法の講義では、この「真似ぶ」ということが簡単なようであって、いかに難しいものかということをつくづく感じさせられます。
それは「自ら考える」という私たちの思考が邪魔しているのではないかと考えます。
真似てみる行為をするのにあれこれ考えてしまうというのは、独自の解釈を入れることになるからです。

阿弥陀様のみ教えも「そのまま聞く」「疑いなく聞く」ことを大切にしていますが、その難しさについて、親鸞聖人は正信偈に次のように記されています。

 

弥陀仏本願念仏(みだぶつほんがんねんぶつ) 

邪見憍慢衆生(じゃけんきょうまんなくしゅじょう) 

信楽受持甚以難(しんぎょうじゅじじんになん) 

難中之難無過斯(なんちゅうしなんむかし)

 

「あらゆる人を漏れなく救いたいという阿弥陀仏の本願念仏の教えは、自分の考えが一番正しいと思い込み教えに耳を塞いでいたり、驕り高ぶっている私たちにとって、信じることは本当に難しい。難の中の難であり、これ以上難しいことはない。」という意味です。

「信じることは難しい」という表現によって、私たちが自分の力で信じることの限界を示すとともに、阿弥陀様の願いが私たちには受け止めきれないほどの深い慈悲のお心であることを表しています。
そのまま真似ることが難しいのと同様、自分の考えを入れずにそのまま聞くというのは、難しいものです。
ましてや、私たちの範疇を超えたはたらきをそのまま聞くというのは、まさに難の中の難です。

ですが、その時には理解できなかった言葉が後になってストンと腹落ちした、という体験をされたことのある方もいらっしゃるでしょう。
阿弥陀様の教えも、聞いてすぐにストンと身に染みるようにいただくことは難しいかもしれません。
だからこそ、何度でも何度でも聞かせていただくことが大切です。
明日の命も分からない私たちです。
一つひとつのお参りのご縁を大切に、この度の報恩講法要もご一緒にお参りさせていただきましょう。

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