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	<title>浄土真宗本願寺派 正楽寺 &#187; 仏事の心得</title>
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	<description>川崎と足立区のお寺 永代供養・お墓</description>
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		<title>そのまま聞くことの難しさ</title>
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		<pubDate>Wed, 08 Oct 2025 13:42:17 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[shorakuji]]></dc:creator>
		
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		<description><![CDATA[十数年前からお経の読み方や儀礼作法の講義を持つ機会をいただいています。学生時代は学ぶ立場だった私が、教える立場になって痛感していることは、｢教える｣のではなく「私も学ばせていただいている」ということで･･･]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>十数年前からお経の読み方や儀礼作法の講義を持つ機会をいただいています。<br />学生時代は学ぶ立場だった私が、教える立場になって痛感していることは、｢教える｣のではなく「私も学ばせていただいている」ということです。<br />｢どうしたら分かりやすく伝えられるだろう｣ということは、今でも行錯誤の連続です。</p>
<p>｢学ぶ｣の語源は｢真似ぶ｣と言われておりますが、特に真似て覚えることに重きを置く、お経の読み方や作法の講義では、この｢真似ぶ｣ということが簡単なようであって、いかに難しいものかということをつくづく感じさせられます。<br />それは｢自ら考える｣という私たちの思考が邪魔しているのではないかと考えます。<br />真似てみる行為をするのにあれこれ考えてしまうというのは、独自の解釈を入れることになるからです。</p>
<p>阿弥陀様のみ教えも｢そのまま聞く｣｢疑いなく聞く｣ことを大切にしていますが、その難しさについて、親鸞聖人は正信偈に次のように記されています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>弥陀仏<strong>本願<strong>念仏(みだぶつほんがんねんぶつ)</strong></strong></strong><strong>　</strong></p>
<p><strong>邪見憍慢<strong>悪<strong>衆生(じゃけんきょうまんなくしゅじょう)</strong></strong><strong>　</strong></strong></p>
<p><strong><strong>信楽受持甚以難(しんぎょうじゅじじんになん)<strong>　</strong></strong></strong></p>
<p><strong><strong><strong>難中之<strong>難無過斯(なんちゅうしなんむかし)</strong></strong></strong></strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>｢あらゆる人を漏れなく救いたいという阿弥陀仏の本願念仏の教えは、自分の考えが一番正しいと思い込み教えに耳を塞いでいたり、驕り高ぶっている私たちにとって、信じることは本当に難しい。難の中の難であり、これ以上難しいことはない。｣という意味です。</p>
<p>｢信じることは難しい｣という表現によって、私たちが自分の力で信じることの限界を示すとともに、阿弥陀様の願いが私たちには受け止めきれないほどの深い慈悲のお心であることを表しています。<br />そのまま真似ることが難しいのと同様、自分の考えを入れずにそのまま聞くというのは、難しいものです。<br />ましてや、私たちの範疇を超えたはたらきをそのまま聞くというのは、まさに難の中の難です。</p>
<p>ですが、その時には理解できなかった言葉が後になってストンと腹落ちした、という体験をされたことのある方もいらっしゃるでしょう。<br />阿弥陀様の教えも、聞いてすぐにストンと身に染みるようにいただくことは難しいかもしれません。<br />だからこそ、何度でも何度でも聞かせていただくことが大切です。<br />明日の命も分からない私たちです。<br />一つひとつのお参りのご縁を大切に、この度の報恩講法要もご一緒にお参りさせていただきましょう。</p>
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		<title>いつでも・どこでも・誰にでもの阿弥陀様</title>
		<link>https://www.shorakuji.com/knowledge/1847</link>
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		<pubDate>Tue, 01 Jul 2025 02:09:53 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[shorakuji]]></dc:creator>
		
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		<description><![CDATA[｢西暦｣とは、キリストが生まれた年を元年とした紀年法ですが、仏教にも｢仏暦｣という釈尊が入滅(にゅうめつ)した年、またはその翌年を元年とする紀年法があることをご存知でしょうか。 今年は仏暦二五六八年で･･･]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>｢西暦｣とは、キリストが生まれた年を元年とした紀年法ですが、仏教にも｢仏暦｣という釈尊が入滅(にゅうめつ)した年、またはその翌年を元年とする紀年法があることをご存知でしょうか。</p>
<p>今年は仏暦二五六八年であり、東南アジア等の仏教圏で使用されているそうです。</p>
<p>その他に、仏教では釈尊入滅を基点とした｢三時(さんじ)思想(しそう)｣という、釈尊の教えが入滅後、　どのように伝わっていくのかを定めた歴史観もあります。</p>
<p>それが｢正法(しょうぼう)･像法(ぞうほう)･末法(まっぽう)｣と呼ばれる時代区分です。</p>
<p>正法とは、入滅後五百年までの時代を指します。教えと修行が正しく守られ、悟りを得る人が存在した時代です。</p>
<p>像法とは、入滅後千年が経過した  時代のことで、教えと修行は残りますが、悟りを得る人はいない時代です。</p>
<p>末法とは、入滅後千五百年が経過した時代で、教えだけが残り、修行も悟りを得る人も存在しない時代、と言われております。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>現代はもちろん、約八五〇年前の親鸞聖人ご在世の当時も既に末法の時代でした。</p>
<p>親鸞聖人は二〇年間、悟りを得ようと厳しい修行に励まれましたが、悟りに至る道を見出すことができませんでした。</p>
<p>それ故に、末法の時代に自らの力で悟りを得ることは難しいと感じ、すべての人を必ず救い摂るという願いを建て、はたらき続けてくださる阿弥陀様の教えこそ、末法の時代に生きる者のために説かれたものだと味わっていかれたのです。</p>
<p>私たちは、時代の変化に流されて右往左往しやすいものです。</p>
<p>その一方で、阿弥陀様は時代の変化に左右されることなく、ただひたすらに｢生きとし生けるものを救い摂りたいんだ｣という一つの願いだけを持ち続け、時代を超えてはたらき続けてくださっています。</p>
<p>そのことに親鸞聖人は心を打たれたのでしょう。</p>
<p>そして、｢いつでも｣・｢どこでも｣・｢誰にでも｣はたらき続けてくださる阿弥陀様のたった一つの願いであり、その喚(よ)び声こそが「南無阿弥陀仏」のお念仏です。</p>
<p>普段、日常生活に忙殺され、お参りすることが二の次になりがちな方もいらっしゃるかもしれません。</p>
<p>そのような私たちに｢お念仏申せ｣と背中を押してくださるのが、先立たれた方々です。</p>
<p>この度のお盆法要も、大切な方々が私たちの背中を押してくださる尊いご縁です。先立たれた方々、阿弥陀様、親鸞聖人に感謝の気持ちとともにお参りさせていただきましょう。　</p>
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		<title>この世の利益</title>
		<link>https://www.shorakuji.com/knowledge/1784</link>
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		<pubDate>Sat, 05 Apr 2025 09:11:10 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[shorakuji]]></dc:creator>
		
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		<description><![CDATA[｢利益｣という言葉を何と読まれるでしょうか。 おそらく、殆どの方は｢りえき｣と読まれるのだと思います。 ですが、｢ご利益｣と書いたらどうでしょうか。 今度は多くの方が｢りやく｣と読まれます。 &#038;nbs･･･]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>｢利益｣という言葉を何と読まれるでしょうか。</p>
<p>おそらく、殆どの方は｢りえき｣と読まれるのだと思います。</p>
<p>ですが、｢ご利益｣と書いたらどうでしょうか。</p>
<p>今度は多くの方が｢りやく｣と読まれます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>｢りえき｣と読む時は｢経済活動等によって得るもうけ｣を意味します。</p>
<p>一方で｢りやく｣と読む時は、仏教においては｢仏の教えに従うことによって得られる幸福・徳｣を意味します。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>世間一般で｢ごりやく｣と言えば、例えば試験に合格したい・病気を治してほしいといった、仏や神にお祈りしたりお願いすることで、自分の願っていることを叶えてもらう ことが｢ご利益がある｣と思われているようです。</p>
<p>私たちの願いの多くは自分の個人的な欲望です。</p>
<p>自分の都合を考えただけの個人的な欲望ばかりが叶えられたら、どうなるでしょうか。</p>
<p>決して、平和な世の中、幸福な人生が実現するとは思えません。</p>
<p>何故なら、私たちは多くの生命に支えられて生かされていて、私を生かしてくださる生命が幸せになることなしに私の幸せは成り立たないからです。</p>
<p>人間の欲望は無制限です。</p>
<p>その欲に応えるために宗教の利益は説かれているのではありません。</p>
<p>｢すべての人びとを救おう｣という願いが私たちの身の上に実現することが仏教の説く利益なのです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>仏教には宗派が様々ありますが、共通して言える究極の目的は｢悟りを開くこと｣です。</p>
<p>これだけを聞くと｢仏教は死後のことであって、生きている今は関係ない｣と思われるかもしれません。</p>
<p>しかし仏教は、今ここにあるこの身を一番の問題にしています。</p>
<p>ですから｢あの世｣に往ってはじまる教えではないのです。｢仏説阿弥陀経｣というお経には｢今現在説法(こんげんざいせっぽう)｣と説かれています。</p>
<p>｢阿弥陀という仏様が、今現に私に向けて法を説いている｣と教えてくださっています。</p>
<p>｢この世でどうしても仏になることができない者をそのまま見捨てることができない｣と、四十八の願いを建てられたのが阿弥陀様であり、｢南無阿弥陀仏｣のお念仏の教えです。</p>
<p>今、この瞬間も様々な縁となり、私に阿弥陀様の願いの中で共に生かされて生きている生命の真実を説法してくださっているのです。</p>
<p>様々な縁の一つとして私に届いているのが、先立たれた方の尊い生命です。</p>
<p>この度の永代経法要も全てのご縁に感謝してご一緒にお参りいたしましょう。</p>
]]></content:encoded>
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		<title>生きるということは 長さの問題ではない</title>
		<link>https://www.shorakuji.com/knowledge/1776</link>
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		<pubDate>Tue, 31 Dec 2024 15:00:42 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[shorakuji]]></dc:creator>
		
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		<description><![CDATA[新しい年を迎えました。 今年も皆さまとご一緒に阿弥陀仏の教えを拠り所とする一年を過ごせればと思います。 毎年、報恩講法要の参拝記念品として、翌年のカレンダーとカレンダーにある東井義雄氏の「月の言葉」に･･･]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>新しい年を迎えました。</p>
<p>今年も皆さまとご一緒に阿弥陀仏の教えを拠り所とする一年を過ごせればと思います。</p>
<p>毎年、報恩講法要の参拝記念品として、翌年のカレンダーとカレンダーにある東井義雄氏の「月の言葉」について詳細に書かれた冊子をお渡ししております。</p>
<p>昨年末、改めて二〇二四年の「月の言葉」を読み直しました。</p>
<p>どの言葉もシンプルながら、我が身を省みたり、深く頷くものばかりでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>その中でも、私の心に一番響いた言葉が「生きるということは長さの問題ではない」でした。</p>
<p>その内容は七年半前、父である先代住職が往生した際、私自身が言い続けていたものだったからです。</p>
<p>父は六五歳を一期としてこの人間世界の生命を終えました。</p>
<p>現代では「人生一〇〇年 時代」と言われるように、「一〇〇年生きるのが当たり前」だと疑わなくなりました。</p>
<p>そのような考え方でいると、六五年という生涯は「若すぎた」「早すぎた」ということになるのでしょう。</p>
<p>実際に、多くの方からそのようなお言葉をいただきました。</p>
<p>それらは父を惜しむ思いで伝えてくださった言葉だと、有り難く頂戴しましたが、その一方で「長生きしないとダメなのか」という思いが浮かんだことも事実です。</p>
<p>その時に、自分に言い聞かせるようにお答えしていたのが「年齢ではなく、精一杯に生きてくれたと  思います。」という言葉でした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>私たちは新年・誕生日等の節目ごとに「この一年こそはこうしたい」と、悔いのないよう、充実した一年を過ごそうと心新たにします。</p>
<p>ところが、一年後、振り返って充実した一年だったと思えたことは何度あったことでしょう。</p>
<p>私自身「こうしたかった、ああしたかったのに」と後悔することの方が多いように思います。</p>
<p>精一杯に生きていくことの難しさを感じる方が多いのではないでしょうか。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>仏教はより良い人生を送るための処世術ではありません。</p>
<p>それよりも深く、人生の根本にあるものを問題にしています。</p>
<p>表面上の問題ではなく、本質を問うものなのです。</p>
<p>我が身を振り返ると耳の痛いことを聞かせていただくのも仏教です。</p>
<p>しかし、それを受け容れてこそ、真実の生き方といえるでしょう。</p>
<p>新しい年の始まりです。</p>
<p>あなたが 「精一杯に生きる」と思い描くことは何でしょうか。</p>
<p>ご自身の生き方を問うとともに、その傍らに今年も仏様の教えがあっていただきたいと念願いたします。</p>
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		</item>
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		<title>摂取不捨の仏様</title>
		<link>https://www.shorakuji.com/knowledge/1731</link>
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		<pubDate>Fri, 11 Oct 2024 15:00:35 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[shorakuji]]></dc:creator>
		
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		<description><![CDATA[今年六月の新聞に、令和六年石川県能登地方地震で被災された方が、能登で営まれていたお店を川崎駅付近で出店するという記事が載りました。 少しでも復興のお役に立てればと思い、何度かお店に伺い、美味しい食事を･･･]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>今年六月の新聞に、令和六年石川県能登地方地震で被災された方が、能登で営まれていたお店を川崎駅付近で出店するという記事が載りました。</p>
<p>少しでも復興のお役に立てればと思い、何度かお店に伺い、美味しい食事をいただいたことです。</p>
<p>江戸時代の加賀藩士･浅加久敬が残した｢<strong>能登はやさしや土までも</strong>｣という言葉があります。</p>
<p>これは、　　能登半島の人々の優しさや温かさを称賛するものです。</p>
<p>北陸は古くから浄土真宗の教えが根付いている所であり、阿弥陀様のお慈悲の心が行き届き、土地の人々の性質・文化にも浸透しているのではないか、と能登出身の方が教えてくださいました。</p>
<p>阿弥陀様はすべてのいのちを救うため、限りない光といのちの仏になろうと誓われました。</p>
<p>｢阿弥陀｣とは｢無量・量ることができない｣という意味です。</p>
<p>あらゆる世界を　照らし、私たちを救い摂ろうとしてくださる仏様です。</p>
<p>親鸞聖人は阿弥陀様について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>十方<strong>微塵<strong>世界(じっぽうみじんせかい)</strong></strong></strong><strong>の</strong></p>
<p><strong>念仏の衆生(しゅじょう)<strong>をみそなはし</strong></strong></p>
<p><strong><strong>摂取(せっしゅ)<strong>してすてざれば</strong></strong></strong></p>
<p><strong><strong><strong>阿弥陀となづけたてまつる</strong></strong></strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>(数限りないすべての世界の念仏をするものを見通され、摂め取って決してお捨てに　ならないので阿弥陀と申し上げる)</p>
<p>と、和讃として書き残されました。</p>
<p>どのような人であっても、追いかけ摂め取ってくださるのが、阿弥陀という仏様なのです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>私たちは自分一人で生きているつもりになって｢私が、僕が｣と｢我を張る｣ことばかりで周りの人たちと衝突を繰り返しています。</p>
<p>このような私を摂め取って捨てることのない阿弥陀様が｢我｣の殻に閉じこもっている私に｢一時も早く目覚めよ｣とよびかけ続けてくださっているのです。</p>
<p>そのよび声は南無阿弥陀仏の名号として私に届けられています。</p>
<p>親鸞聖人は、阿弥陀様のお心を大変喜ばれ、｢<strong>ひとへに親鸞一人がためなりけり</strong>｣(ひとえに親鸞一人のためにはたらいてくださっている)と仰いました。</p>
<p>そして、これは私たちにとっても同様で｢◯◯(貴方の名前)一人がためなりけり｣なのです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この度は、このような阿弥陀様を生涯かけて喜ばれた親鸞聖人の御命日法要｢報恩講｣です。</p>
<p>私たちが今、阿弥陀様のおはたらきに気付かせていただくことができたのは、親鸞聖人のおかげ、そして、聖人とご縁を結ぶきっかけとなった先立たれた方々のおかげで、すべて｢おかげさま｣の世界であります。</p>
<p>一つずつのご縁に感謝申させていただきながら、ご一緒にお参りいたしましょう。</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>三毒の煩悩</title>
		<link>https://www.shorakuji.com/knowledge/1683</link>
		<comments>https://www.shorakuji.com/knowledge/1683#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 18 Jun 2024 04:53:08 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[shorakuji]]></dc:creator>
		
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		<description><![CDATA[六月二十日は東京正楽寺第二代住職の祥月命日です。 昭和二十年、第二次世界大戦の中、沖縄での戦死であったと聞いております。 旧盆の時期でもある八月十五日が終戦日ということもあり、お盆法要の準備を始める六･･･]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>六月二十日は東京正楽寺第二代住職の祥月命日です。</p>
<p>昭和二十年、第二次世界大戦の中、沖縄での戦死であったと聞いております。</p>
<p>旧盆の時期でもある八月十五日が終戦日ということもあり、<br />お盆法要の準備を始める六月頃から夏にかけては、普段以上に強く戦争を意識します。</p>
<p>終戦後の昭和二十六年、サンフランシスコ講和条約が締結されました。</p>
<p>これは、日本政府が連合国四十八カ国と戦争状態を終わらせるために締結した講和条約です。</p>
<p>その際、セイロン(現在のスリランカ)は、日本に対する損害賠償請求権を自発的に放棄し、大きな反響を呼びました。</p>
<p>そして、放棄の理由として挙げられたのが</p>
<p><strong>「怨みは怨みによって鎮まらない　怨みを忘れて はじめて怨みは鎮まる」</strong>（法句経）</p>
<p>という、お釈迦様のお言葉でした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>「喜怒哀楽」という言葉があるように、私たちには様々な感情があります。</p>
<p>日常生活を送る中で、怒りや憎しみ、怨みに心が囚われることがあります。</p>
<p>仏教では、その心を<strong>「瞋恚(しんに)<strong>」</strong></strong>と言います。</p>
<p>また、むさぼり・求める心を「<strong>貪欲(とんよく)</strong>」、</p>
<p>愚かで真理を知らないことを「<strong><strong>愚痴(ぐち)</strong></strong>」と言います。</p>
<p>これら三つは人間の根本的な煩悩として「<strong><strong>三毒(さんどく)<strong>の煩悩(ぼんのう)</strong></strong></strong>呼ばれております。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>私たちは常に「あれがほしい」「こうなりたい」等の求める心が尽きません。</p>
<p>そして、思い通りにならないと</p>
<p>「なぜ、こうならないんだ」「どうして、ああしてくれないのか」等と腹を立て、怒り・憎しみ・怨みへとなります。</p>
<p>それらの感情が起こるのは、「私の思い通りにしたい」と、目先のことに囚われて、<br />因果の道理等の真理を知ろうとしない、愚かな心があるからなのです。</p>
<p>私たちの感情や長年積み重ねてきた考え方を手放すということは、容易なことではありません。</p>
<p>ですが、我が身を振り返り、自分の行動パターンや傾向を知り、一度立ち止まってみることはできると思うのです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この度は、お盆法要のご縁です。</p>
<p>昔から、浄土真宗ではお盆法要(盂蘭盆会(うらぼんえ))のことを「歓喜会(かんぎえ)」と呼び、</p>
<p>仏様の教えを喜んでいただく機会として、大切にされてきました。</p>
<p>先立たれた方々を偲ぶ中で仏様の教えに触れ、改めて我が身を省みる時間として、ご一緒にお参りさせていただきましょう。</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>いつも　あなたのそばに</title>
		<link>https://www.shorakuji.com/knowledge/1645</link>
		<comments>https://www.shorakuji.com/knowledge/1645#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 31 Mar 2024 15:00:58 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[shorakuji]]></dc:creator>
		
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		<description><![CDATA[日本最古の仏壇をご存知でしょうか。 それは飛鳥時代の「玉虫厨子(たまむしのずし)」です。 七世紀中頃、推古天皇が朝夕拝まれる念持仏として作られたとされています。 その後、６８５年３月２７日、天武天皇が･･･]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>日本最古の仏壇をご存知でしょうか。</p>
<p>それは飛鳥時代の「玉虫厨子(たまむしのずし)」です。</p>
<p>七世紀中頃、推古天皇が朝夕拝まれる念持仏として作られたとされています。</p>
<p>その後、６８５年３月２７日、天武天皇が「諸国の家毎に仏舎を作り 即ち仏像と経を置き 礼拝供養せよ」と勅命を出されました。</p>
<p>それが仏壇普及のはじまりと言われ、３月２７日は「仏壇の日」とされています。</p>
<p>ただし、当時の仏教は一部の人だけのもので、市井の人々の間で仏壇が普及するようになったのは江戸時代、幕府の寺請制度の政策がきっかけでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>浄土真宗では、室町時代、本願寺の第八代宗主蓮如上人が「南無阿弥陀仏」の名号を下付されたことにより、</p>
<p>人々が仏様に手を合わせてお参りするという習慣が根付きました。</p>
<p>そして蓮如上人は「<strong>本尊は掛けやぶれ</strong>」と仰いました。</p>
<p>当時、御本尊(名号)を全ての家にご安置することは難しいことだったと思います。</p>
<p>恐らくは、講(人々が集まりお参りする会のこと)の際、その都度、御本尊を掛け直していくということを繰り返すため、</p>
<p>「掛けやぶれるほど、何度もお参りをしてください」という意味で仰ったのだと思います。</p>
<p>それは、仏様に手を合わせお参りすることの大切さを説かれたお言葉です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>浄土真宗における仏壇は、お寺の本堂を模したものとされています。</p>
<p>浄土真宗のお寺の本堂は仏説阿弥陀経に説かれる西方極楽浄土を表現するために金色を基調としています。</p>
<p>ご家庭での本堂がお仏壇ですので、浄土真宗では金仏壇が正式とされています。</p>
<p>また、「仏壇は家長などの誰かが受け継げば良い」という考え方をお持ちの方が少なくないようですが、</p>
<p>お参りをして仏様の教えを聞くということは、「一家の誰かが代表して行う」というものではありません。</p>
<p>それぞれが日々お参りをして、生活の中で感謝の思いと我が身を省みる場所として、お仏壇を構えていただくことが望ましいのです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>全ての方にとって、ご家庭のお仏壇という場所は、先立たれた方を偲ぶ中で、仏様を身近に感じる場所であってほしいと思います。</p>
<p>お子様がぬいぐるみや人形を友だちとして、いつもそばに置き、話しかけるように、</p>
<p>皆様にとっての仏様も、いつも傍にいて、ただ黙って私の話を聞き、寄り添ってくださる。</p>
<p>お仏壇・仏様は「特別な場所」ではなく「一番身近な場所」であってほしいと思います。</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>浄土真宗の日の良し悪し</title>
		<link>https://www.shorakuji.com/knowledge/1606</link>
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		<pubDate>Sun, 31 Dec 2023 15:00:30 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[shorakuji]]></dc:creator>
		
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		<description><![CDATA[新しい年を迎えました。 今年も皆さまとご一緒に阿弥陀仏の教えを拠り所とする一年を過ごせればと思うことです。 現代日本においては「私は無宗教です。」と言われる方も少なくないように思いますが、そのような方･･･]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>新しい年を迎えました。</p>
<p>今年も皆さまとご一緒に阿弥陀仏の教えを拠り所とする一年を過ごせればと思うことです。</p>
<p>現代日本においては「私は無宗教です。」と言われる方も少なくないように思いますが、<br />そのような方でも、正月には初詣に行き、日の良し悪しを気にされます。</p>
<p>十二月二十九日について、ある人は「今日は二十九日。【二重苦】だから、正月飾りをしてはいけない。」と言われ、<br />別の人は「今日は二十九日。【福】だから、正月の餅つきをしましょう。」と言われました。</p>
<p>これは、私達が自分の都合の    良いように物事を理解し、同時に迷信俗信に囚われていることの表れでもあります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>年末だけでなく、日頃から、日の良し悪しを気にされる方もいらっしゃるでしょう。</p>
<p> 吉凶を表すものの一つとして、「六曜」があります。</p>
<p>その日が「吉日」とされる「大安」の日であっても、試験に落ちれば、その人にとっては「悪い日」です。</p>
<p>皆様ご承知の通り、吉日を選んでも、必ず成就するとは限りません。</p>
<p>一方で、一般的に大凶日とされる「仏滅」の日であっても、結婚式を挙げれば、その人にとっては「良い日」になります。</p>
<p>鎌倉時代末期の歌人・兼好法師が『徒然草』に「<strong>吉凶は人によりて日によらず</strong>」と記されているように、<br />吉凶はその人の行いによるのであって、日に良し悪しはありません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>また、仏事について「ご法事は故人の命日までにお参りしなければならない」と思い込まれている方もいらっしゃいます。</p>
<p>これは本来、「先立っていかれた方のご法事を忘れることなく、しっかりお参りしなさい。」という意味なのですが、<br />「命日までにお参りしないといけない。」という言葉だけがひとり歩きしてしまい、<br />その言葉に囚われている方も少なくありません。</p>
<p>ご法事は、故人が私たちのために生命をかけてご用意くださった大切なご仏縁です。</p>
<p>祥月命日の前でも後でも、そのご縁に遇うことが大切なのです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>私たちは不安や焦りを抱えながら生きていて、時として迷信や俗信に惑わされることがあります。</p>
<p>そんな私たちだからこそ、因果の道理、全ての結果には、必ず原因があることをわきまえて、<br />かけがえのない一日一日を精一杯に生きていきたいものです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>今年も「今日【は】良い日」ではなく、「今日【も】尊い一日」といただいて、日々を過ごしてまいりましょう。</p>
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		<title>健康に生きる～心の健康～</title>
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		<pubDate>Wed, 14 Jun 2023 15:00:03 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[｢健康＝身体のこと｣という認識を持っている方は多いでしょう。 しかし、ＷＨＯにおける健康の定義は｢身体的･精神的･社会的に完全に良好な状態であり、 単に疾病のない状態や病弱でないことではない｣とされて･･･]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>｢健康＝身体のこと｣という認識を持っている方は多いでしょう。</p>
<p>しかし、ＷＨＯにおける健康の定義は｢身体的･精神的･社会的に完全に良好な状態であり、</p>
<p>単に疾病のない状態や病弱でないことではない｣とされています。</p>
<p>つまり、身体のこと以外に｢心の健康(精神的)｣と｢社会の中に自分の居場所があること(社会的)｣を含め健康と定めています。</p>
<p>健康へのアプローチは様々ですが、｢今ここにいる私のため｣の教えである仏教を聞き続けることは、</p>
<p>心を育み、心を良好（健康）な状態に保つことにつながると思います。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>浄土真宗では、阿弥陀様の教えを喜ばれ、報恩感謝の人生を送られた人を｢妙好人(みょうこうにん)｣と呼びます。</p>
<p>その一人に｢因幡の源左(いなばのげんさ)｣という方がいらっしゃいました。</p>
<p>源左は十八歳の時に父親を亡くしました。</p>
<p>その父親の遺言が｢おらが死んで淋しけりゃ、親をさがして、親にすがれ｣というものでした。</p>
<p>浄土真宗では、私が頼む前から、「我にまかせよ、必ず救う」と慈しみお育てくださる阿弥陀様を「親様」と仰ぎます。</p>
<p>「親をさがして、親にすがれ｣というのは、阿弥陀様を頼れということですが、源左にはその意味が分かりませんでした。</p>
<p>しかし、阿弥陀様の教えを聞き続ける中で、次第に、あらゆる出来事には、阿弥陀様のお手まわしが行き届いていると感じ取る、</p>
<p>豊かな心を育んでいったのです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そんな源左の有名なエピソードがあります。</p>
<p>ある夏、夕立にあってずぶ濡れになり帰ってきた源左を見た人が｢よう濡れたのう｣と声をかけると、</p>
<p>源左は｢鼻が下に向いとるで、有難いぞなぁ｣と言いました。</p>
<p>｢この鼻が上向きについておれば、雨はみな鼻の穴に入ってしまうが、</p>
<p>下向きについてくださるおかげで、息がつまらず苦にならん、</p>
<p>親様は何でもええやぁにしてくださるで、何で小言がいわれようかいなぁ｣と喜ばれたそうです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>頭では分かっていても、実際に心底実感できる人はどれほどにいるでしょうか。</p>
<p>当たり前が当たり前でないと気付けると、感謝とお陰さまの世界に出遇うことができます。</p>
<p>それは、心を育むということでしょう。</p>
<p>源左もすぐに、この境地に至ったわけではありません。</p>
<p>長い時間｢親をさがして、すがるとは、どういうことか｣と聞き続けた先に開けた世界であります。</p>
<p>この源左の姿勢から、人生の問いは一生をかけて問い続けなくてはならないことを教えられます。</p>
<p>今回は「心の健康」を中心に書かせていただきましたが、次回はもう一つの｢社会的健康｣をテーマに書かせていただきます。</p>
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		<title>仏法の水に我が身を浸す</title>
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		<pubDate>Sat, 31 Dec 2022 15:00:18 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[新しい年を迎えました。 昨年も有縁の皆様とご一緒に、葬儀や法事といったお参りの時間を持たせていただいたことです。 老若男女、様々な方を偲ぶご仏事のご縁を頂戴いたしましたが、その度に｢私たちの生命は時間･･･]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>新しい年を迎えました。</p>
<p>昨年も有縁の皆様とご一緒に、葬儀や法事といったお参りの時間を持たせていただいたことです。</p>
<p>老若男女、様々な方を偲ぶご仏事のご縁を頂戴いたしましたが、<br />その度に｢私たちの生命は時間に限りのあるもの、いつどこでどうなるか分からない生命をいただいている｣と、<br />住職自身が教えていただいたことでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>｢新年は祝うもの｣というのが一般的な考え方でしょう。</p>
<p>その理由の一つに、元々｢年取りの祝い｣というものがあったそうです。</p>
<p>かつては、正月が来る度に、皆一斉に年を取る｢数え歳｣で年齢を数えていたためです。</p>
<p>一般的に｢年齢を重ねることは嬉しいことではない。｣と言われる方が多いようです。</p>
<p>しかし、個人的に思うことは｢いつまで生命が在るかわからないにもかかわらず、<br />今日までこの生命が続いてきたことは、すごいこと。<br />むしろ、年齢を重ねる方が、有難く、喜ばしいことなのではないか。｣ということです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>私がこのように思えるようになったのは、仏様の教えてくださる不変の真理、</p>
<p>先立たれた方々が生命をかけて教えてくださったことを聞き続けてきたからです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>本願寺第八代宗主(しゅうしゅ)蓮如上人(れんにょしょうにん)の語録を集めた<br />『蓮如上人御一代記聞書(れんにょしょうにんごいちだいきききがき)』<br />という本の中に次のようなお話があります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ある人が<br />｢私の心はまるで(目の粗い)籠に水を入れるようなもので、ご法座を聞くお座敷では、ありがたい、尊いと思うのですが、<br />その場を離れると、たちまち元の心に戻ってしまいます。｣<br />と打ち明けられました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>すると蓮如上人は<br />｢<span style="font-size: 14pt;"><strong>その籠を水の中につけなさい。我が身を仏法(教え)の水の中にひたしておけばよいのです。</strong></span>｣<br />と仰せになったということです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>仏様の教えを聞き続ける中で、いつも仏様や先立たれた方々に寄り添われている我が身であることに気付かされ、<br />仏様の教えを心の拠り所・生きる糧としようと心がけることは大切なことです。</p>
<p>しかし、私たちの　心はコロコロと移ろいやすいものです。</p>
<p>だからこそ、｢仏法の水の中に籠をひたす｣つまり｢教えを聞き続ける環境に身を置く｣ことを蓮如上人はおすすめくださるのでしょう。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>仏様の教えを聞き続けることで、新たな発見、腑に落ちることがあるというのは、</p>
<p>新しい世界が開けるようで、有難く、嬉しいものです。</p>
<p>その積み重ねが心を育み、心が満たされ、仏様の教えが心の拠り所・生きる糧となっていきます。</p>
<p>今年も｢仏法｣という水の中に、｢私｣という籠を浸せるよう、ご一緒にお参りし続ける一年にしましょう。</p>
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